ヤヌワリオ 早坂久之助司教
1927年7月16日、長崎教区を邦人司教区とする教皇令が発布され、初代邦人教区長に早坂久之助師が選任された。教皇ピオ十一世は早坂師をローマに招き、10月30日、王たるキリストの祝日に、教皇自らの手によって司教に叙階された。教皇は祝聖ミサ説教の中で「これから日本に帰って、キリストの王国を日本人の間に拡めるため、ここローマから再び派遣されるのです」と語られた。当時、聖座は、回勅「レールム・エクレジエ」に示されるように、布教地の教会を邦人聖職者による独立、活動させる方針を積極的に推進。この推進力であった布教聖省長官ファン・ロッスム枢機卿は、早坂司教に、長崎教区の宣教の担い手として、信者、未信者の女子のためのカトリック教育とその他の社会事業のために、その土地(日本)の女子修道会の創立を熱心に勧める。早坂司教は、約5ヶ月間の欧米歴訪中に、己に託された使命として決意。アメリカで「今最も大切な問題としてあるのは何か」との質問に、母国におけるキリスト教精神の拡大。そのためには、沢山の司祭、沢山の学校、沢山のシスターが必要」と答えている。1928年4月25日、長崎教区長として着座。邦人女子修道会創立にも着手。1934年6月9日の聖母のいと潔き御心の祝日に、大浦天主堂の「信徒発見のサンタマリア像」の前で純心聖母会を創立。
ヤヌワリオ 早坂久之助司教の紋章
QUI NESCIT OCCASUM
(「日没を知らぬもの」という意味のラテン語)
復活徹夜祭の典礼で、復活のろうそくを祝する時のことば。
ろうそくは正義の太陽であるイエス・キリストの象徴。
すなわち真理の太陽は日本国の象徴である富士山の上に昇ったからキリスト教の光は永遠にこの国を照らすであろうという意味。
(「日没を知らぬもの」という意味のラテン語)
復活徹夜祭の典礼で、復活のろうそくを祝する時のことば。
ろうそくは正義の太陽であるイエス・キリストの象徴。
すなわち真理の太陽は日本国の象徴である富士山の上に昇ったからキリスト教の光は永遠にこの国を照らすであろうという意味。
略歴
1883.9.17 | 父久五郎と母りよの次男として仙台市名掛丁に誕生 |
1883.9.19 | 受洗 洗礼名「聖ヤヌワリオ」 |
1905.6 | 旧制第二高等学校(仙台)を卒業 |
1905.9.16 | 日本人最初のプロバガンダ奨学生としてローマに向かう |
1905.12 | 函館教区長ベルリオーズ司教に伴われ教皇聖ピオ十世に拝謁する |
1911.6.10 | ローマで司祭叙階 |
1911.8 | 帰国して函館教区の司牧に従事する |
1921.12 | 駐日ローマ教皇使節の秘書となる |
1924.10 | 日本カトリック教会第2回東京会議に神学顧問として出席 |
1926.5.13 | 文部省宗教制度調査委員に任命される |
1927.10.30 | 教皇ピオ十一世より祝聖され日本人初の邦人司教となる |
1928.2.5 | リジュのカルメル会訪問 聖女テレジアの姉上たちに迎えられる |
1928.4.25 | 長崎教区長として大浦天主堂にて着座 |
1928.11.1 | 教区活動の一つである「長崎カトリック教報」の創刊 |
1933.10.8 | 脳溢血で倒れる |
1934.6.9 | 純心聖母会を創立 |
1935.3.17 | 純心聖母会にて最初の着衣式 |
1935.4.11 | 純心女学院第1回入学式を挙行 |
1937.2.24 | 病気のため長崎教区長を辞任 郷里仙台に帰って療養生活に入る |
1948.9 | 長崎(大村市)に帰り原爆後の修道女を励ます |
1959.10.26 | 仙台市のスペルマン病院にて帰天 |
1959.10.31 | 浦上天主堂にて追悼ミサが行われ長崎の赤木聖職者墓地に埋葬される |