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共同創立者 江角ヤス

シスター江角の紹介

 
*召命のきっかけ*
  シスター江角は、「東京女子高等師範学校」在学中、特に野の花のしくみに興味を持ち、ある夏の日、庭の向日葵の花の種の並び方を不思議そうに見つめていた。のちに、大学の研究室で調べてみるとその並び方には規則があることを知り、この素晴らしい自然をだれが造ったのだろうと考えるようになった。
 向学心に燃えたシスター江角は,東京女子高等師範学校を卒業後、「東北帝国大学」理学部数学科に進学。在学中、友人に貸りた『キリストにならいて』という一冊の書物が、キリスト教に縁なく育った江角ヤスの人生観を完全に覆した。25歳で洗礼を受け、卒業後トラピスト修道会に入会を希望したが、指導司祭に教育修道会入会を勧められ、京都府立第一高女の教職につきながら召命の道を探していた。 
  京都の江角ヤスのもとに、邦人女子教育修道会創立の意図を説明して参加を懇請する早坂司教からの手紙が届き、召命の道を決定した。

二十六聖人殉教者とシスター江角ヤス

シスター江角ヤスを洗礼に導いた日本26聖人殉教者(旧仙台市角五郎教会)
 初代会長シスター江角ヤスは、東北帝国大学の学生時代、角五郎町教会を訪れ、このステンドグラスによって初めて二十六聖人殉教の次第を知り深い感銘を受け、洗礼に導かれた。
 後に早坂久之助司教が長崎純心聖母会創立のためにシスター江角に協力を要請したとき、それを神の招きと感じたのは二十六聖人殉教の地長崎に修道会が創立されるということにもあったという。
 日本の殉教者に対する崇敬心は初代会長シスター江角の霊性の本質的で大切な部分をなしており、本会の特質にもなっている。

江角ヤス物語

1 江角ヤス物語
2 子供時代のヤス
3 本との出会い
4 早坂司教からの手紙
5 長崎純心聖母会の誕生
6 純心の学校
7 原爆
8 生徒たちの死
9 苦しみを乗り越えて
10 純心教育の広まり
11 恵の丘のおうち
12 シスター江角神様のもとへ

   「マリア様 いやなことは 私が よろこんで」

「聖母マリアの無原罪の御宿り」の教義宣言百周年を記念して、『聖母の年』(1954年)が定められました。この年にシスター江角は、「マリア様 いやなことは 私が よろこんで」のことばをつくりました。

略歴

1899.2.15島根県簸川郡で誕生 父文之助 母ユウ
1916.3.22島根女子師範学校2部卒業
1920.3.27東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)卒業
1923.4.25東北帝国大学(現東北大学)理学部数学教室入学
1924.6.8仙台市畳屋丁教会でモンタグ師より受洗。洗礼名マリア
1926.3.29東北帝国大学卒業
1926.3.31京都府立第一高等女学校(現鴨泝高校)数学科教諭となる
1929.4早坂司教の要請に応え京都府立第一高等女学校を辞職 双葉高等女学校へ転勤 早坂司教を長崎に訪問し初めての出会いとなる
1929.4.7聖心幼稚園(佐世保市三浦町)の開園式が行われ早坂司教に招かれる
1930.5.25早坂司教の使命に協力するためマルムチエにある聖心会の修練院で修練を受けることになり神戸港を出港
1931.3.17フランスに帰国中のモンタグ師の司式で着衣を受ける
1933.9.24初誓願宣立
1933.10.8早坂司教 脳溢血で倒れる 病気の知らせがフランスに届けられる
1934.4ローマにて教皇ピオ十一世に特別謁見を許され、日本国、特に長崎教区と邦人修道会の上に教皇の祝福を受け、帰国の途に着く
1934.6.1長崎に帰港
1934.6.9早坂司教 純心聖母会を創立 院長に就任
1935.4.11純心女学院創設(翌年長崎純心高等女学校と改名)学校長就任
1941.8.1聖名高等女学校が「鹿児島純心高等女学校」と改名され、長崎純心聖母会に引き継がれる。理事長に就任
1949.8.31第1回総会において長崎純心聖母会会長に選出されて就任
1962.2.1学校法人川内純心女子学園理事長就任
1963.5.23学校法人東京純心女子学園理事長就任
1967.11.24社会福祉法人純心聖母会設立 理事長就任
1973.8.30長崎純心聖母会会長を引退
1974.7.2学校法人純心女子学園(長崎)理事長就任
1980.11.30恵の丘長崎原爆ホーム別館にて帰天 81歳

純心聖母会
〒852-8142
長崎県長崎市三ツ山町415
TEL.095-848-2241
FAX.095-843-7570

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