長崎地区
諌早教会
12世紀後半の諫早は「肥前の国伊佐早庄」と呼ばれる荘園であり、宇佐大宮司領から仁和寺仏母院(京都)御領となり、諫早、北高来、および長崎半島橘湾岸一帯を含む大荘園であった。 1374年戦国時代の初め伊佐早を攻め、その支配下に置いたのは、西郷氏であり、その後200余年にわたって支配した。豊臣秀吉の伴天連追放が発令された。1587年龍造寺家晴が西郷純堯を打って伊佐早家の祖となり、1619年に第二代領主龍造寺直孝の支配となり、姓を諫早と改め佐賀鍋島藩の家老身分となり、以後廃藩置県に至るまで支配した。豊臣秀吉の伴天連追放令により領内もキリシタンへの弾圧が始まり、1614年から1630年にかけて斬首、火あぶり刑などで殉教した。1640年幕府は切支丹奉行を置き、宗門改めと寺請檀家制度を推進した。このようにして諫早領内にはキリシタンの足跡はすべて姿を消していった。
わが国のカトリック教会が復活したとき、諫早地域定住の信者はいなかった。しかし、諫早地域は産業、交通の要所として発展しつつあったとき、カトリックの信者の移住も始まって昭和の初めに長崎地方から12家族47人が移住。最初は教会がなく一信徒の家でミサが行なわれていた。一人の信者が今の教会と幼稚園の土地を購入し、早坂司教様は諫早に聖堂建築を呼び掛けられ、1932年2月新聖堂を祝別、小教区設立に至った。1932年、五島玉之浦の無線局が愛野に移転となり、五島13家族54人が同時に移動。中口家11人もその一家である。こうしてわずか47名で生まれた諫早小教区は翌年101名に増え、共に小教区創立時の信者として着実な歩みを始めた。
私の召命
1937年に私は諫早で生まれた。洗礼は初代主任司祭山口宅助師、初聖体は第二代主任司祭森山松三郎師、初聖体の稽古は子どもたちみんな賄いのおばさんに教えられた。クリスマスには大人も子どもも一緒に、大人は教会内外の飾りつけ、子どもたちはみんなで馬小屋のために、山へコケ取りに行って楽しく遊んでいた。信徒の数は少ないけれど、みんなが家族のように温かく苦労をともにした教会共同体に囲まれ、信仰の恵みが強められて、こうして諫早の教会とともに私は育てられた。
1948年第三代主任司祭として畑中栄松師が着任、両親はミサを大切にして、ミサのある日は私たち子どもを連れて行った。また初金曜日、初土曜日にもミサに与った。父は、教会で何かがあるといつも奉仕に出かけていた。たくさん話さない父だったが、人のために奉仕することを教えてくれた。
6年生のとき、主任司祭から「堅信の勉強は公教要理一冊覚えること」と「試験がある」と言われ、子どもたちはみんな教会の木に登ったり、あちこちで大きな声で覚えたのも懐かしい思い出である。この年に、畑中神父様に大村の純心女子高等学校のバザーに連れていかれ、学校を見せてもらった。その時に初めてシスターに出会い、翌年春、純心中学校に入学した。
1949年畑中神父様は小教区発展のため、福音宣教のために幼児教育の必要性を確信され、幼稚園の設立を計画された。諫早教会の信徒はわずか40戸余、幼稚園の建設のために人力による敷地開き、割りだけによるエツリかき、泥壁塗りなどの作業には、信徒自身の血がにじむような奉仕作業が行なわれた。畑中神父様が初代園長として就任され、職員として純心聖母会のシスター方が赴任された。シスター方はいつも明るく声掛けをしてくださり、嬉しかった。
純心の中学校に入学してからは、夏休みなど教会やシスター方のお手伝いをするようになり、こうしてシスター方と接する機会も多くなった。高校進学のころシスターになろうかなと考え始め、父にシスターになりたいと相談した。すぐには返事をもらえなかったが、父は主任司祭に相談したようで、ある日、「神父様が純心に入りなさいと言ったよ」と伝えてくれた。父としては他の修道会を考えていたようだが、両親と一緒に学校にあいさつに行き、高校一年の途中で志願生として受け入れてもらった。大勢の志願生の中に受け入れていただき、みんなの優しさと明るい笑顔に守られて楽しい志願生生活を送ることができた。
あれから奉献生活62年の今、小教区で、共同体で、自分にできる奉仕を捧げることができることを感謝し、優しさと心からの笑顔で大人でも子どもでも出会う人々や病人、一人住まいの人に声掛けをして、福音宣教に心がけていきたいと思っている。
現在、諫早教会出身は司祭2名、ブラザー1名、シスター7名である。
(資料:諫早教会創立75周年誌)
浅子教会
浅子教会の沿革
浅子の信徒の故郷、黒島は平戸藩に属していた。平戸藩はキリシタンに寛容であったので、1800年(文化・文政)の頃、外海・生月島・五島などから黒島への移住が始まり、島の人口が急増してしまった。狭い土地で生計を立てることが難しくなったので、キリシタンたちは1880年(明治13)の平戸島・上神崎移住を皮切りに、再び各地に移住することになった。その一つが浅子で、1884(明治17)年ころである。
当初、梶ノ浦の民家で、平戸の紐差から巡回してくる宣教師によって信仰生活の導きを得ていたが、1892(明治25)年、同地に仮教会を造り、1927(昭和2)年、現在地に聖堂が建てられた。『旅する教会』によると、昭和3年12月1日、早坂司教祝別とある。浅子教会は、はじめは下神崎小教区に属していたが、1943(昭和18)年相ノ浦小教区に編入され、1953(昭和28)年に分離し浅子教会として独立した。
浅子教会は、佐世保市の北西、相ノ浦富士の対岸にある浅子岳の麓にあり、九十九島を望む波静かな入り江に面した小さな木造の教会で、築90年を経た現在でも、寸分の狂いも生じていない美しい教会である。ただ、嵐の時には海に面しているという厳しい自然条件のために出入り口はかなり手直しをしている。
信仰の芽生え
ここで、私は、亡くなった叔父から興味深い話を聞いていたので、楠本家のことを少し記したいと思う。曽祖父は黒島の人で平戸藩の家老、キリシタンの迫害者であったようだ。曽祖父楠本佐助は、黒島に移ってきた相川タネという娘さんがとてもいい人だったので、結婚を申し込んだのである。曽祖父はかつてはキリシタン迫害者で、かつ未洗者であったので、娘さんから結婚の条件が出された。
「①洗礼を受けてください。②生まれる子どもに洗礼を授け、信仰生活をさせてください。」と。曽祖父はそれを受けて受洗し、子どもたちにも洗礼を授けたのである。こうして楠本家はキリスト教を信じるものとなったのである。明治17年ころに多くの人が黒島から浅子の「池ノ谷」に移り、そこを開拓し、たくさんの田畑を作った。後のこの池ノ谷の海に近い所に浅子教会が建つことになった。Sr出口と楠本の祖父たちは兄弟である。祖父たちの家の近くに教会が建ったので、祖父たちは浅子教会のためにいろいろ奉仕していた。
終戦後、私が浅子に移った昭和20年9月ころには、まだ教会に信徒会館がなかったので、教会近くの楠本家、Sr出口の祖父の内野家、長谷家など5、6軒の家は日曜日ごとに襖をはずして大広間とし、ミサが終わると、そこで壮年男子、婦人部、青年男子、青年女子、子どもに分かれて、公教要理をするための場所を提供していた。教え方さんは熱心なおじさん、おばさんが選ばれていた。私たち小学生の先生はおじさんだった。堅信のころには「司教様から何を質問されても答えられるように、この一冊を覚えなさい」と厚い要理の本を渡された。
私の幼年時代は父の仕事の関係で、佐世保、大村、波佐見で過ごしたが、太平洋戦争の最中であったので、キリスト教の祈りはスパイ視されるというので、教えられなかった。終戦年の9月、父の故郷、浅子に移り、私は波佐見国民学校から浅子小学校へ転校した。浅子で生活するようになって、初めて教会へ行き、祈ることを知ったのである。戦後の生活は貧しかったが、あの恐ろしい敵機に脅えることのない生活になった。
教会の近くにあった自宅の前は、すぐ海であった。干潮時には広い砂浜になる。そこにはマテ貝や蛤がいた。中でも綺麗なきさごは、女の子のおはじき遊びの道具だった。これらは私にとって戦後に体験した美しい自然との出会いであり、今も心に残っている。
召命への導き
そのころ、浅子教会の主任司祭として高谷神父様がおられた。聖堂の周りを聖務日課を唱えたり、ロザリオを唱えながら歩いておられる神父様の姿をたびたび見かけた。あるとき、「童貞様にならんか」と言われた。しばらくすると、お二人のシスターが教会に来られた。初めて見た童貞様であった。後でそのお二人が純心のSr片岡スヱ子とSr山田雅子であることが分かった。
高谷神父様のご指導で、長谷功さんは神学校へ、出口セイさんと楠本は修道院へ召された。こうして浅子教会からはじめて、司祭と修道者が出たのである。
これからもキリシタンの信仰を受け継いでいる浅子の信者の中から司祭、修道者の召命がありますようにと願う。
出身者 Sr楠本英子 Sr出口セイ
参考書
「長崎・天草の教会と巡礼ガイド」
「大いなる遺産 旅する教会」
堂崎教会(五島 福江)
領主宇久氏の医療的要請を受け、1556年、医師の資格を持つルイス・アルメイダと目が不自由であるが、雄弁な説教家のロレンソ了斎が五島の浦頭の港に到着した。1614年、徳川家康のキリスト教禁教令、領内のキリシタン追放、迫害、弾圧により、五島のキリシタン組織は壊滅したと言われている。1797年、五島藩と大村藩との協定により移住が始まる。外海地区、黒崎村、三重村より奥浦村に300名以上が移住。ほとんどが潜伏キリシタンだった。1867年、奥浦村帳方、水方が大浦天主堂に行き、神父の派遣を依頼した。クーザン師により下五島で初めてのミサが行なわれた。1873年にはフレノー師来島、クリスマスのミサが堂崎の浜辺で捧げられた。1877年に司祭常駐となり、堂崎はキリシタン復活後の拠点となる。1880年、マルマン師により仮聖堂建立、養護施設奥浦慈恵院と女部屋(現お告げのマリア修道院)を始める。1908年、ペルー師により堂崎天主堂献堂。日本二十六聖人の聖ヨハネ五島に捧げられる。1914年堂崎に伝道者養成所開設、五島地区司牧の拠点と定め、潜伏キリシタン教会復帰に努めた。教会の老朽化に伴い、地理的中心地であった浦頭に1968年に新聖堂を建立し、浦頭小教区が発足。交通手段は海から陸路へ変わる。堂崎教会は、後に資料館になり、昭和49年長崎県文化財に指定され、巡礼地となっている。
召命
約100年間、司祭たちの熱い信仰教育の恵みで、司祭19名、修道士6名、修道女79名が堂崎、浦頭小教区での誕
生、先人たちの信仰の賜物と思う。私が育った当時の主任司祭は松下佐吉師で、信仰教育には厳しく、子どもたちには優しく思いやりがあり、笑顔で接してくださっていた。
先ずは十字架の印をさせ、意味を理解し、声を出して唱える。それができたら一人前だと。公教要理は暗記するほど勉強し、テストも行なっていた。学校の勉強も大切にすること、親の子どもに対する躾など、口でいろいろいうよりも親自らミサに与り、聖体を拝領しゆるしの秘跡を受けて、子どもに模範を示すように指導されていた。
私は司祭の信仰教育とシスターたちの祈りの姿に憧れて、小学3年ころより、小学校を卒業したら修道院に行こうと思い続けていた。5年生の終わりごろに修道院入会を誘われたが、なぜかすぐ断った。その後高等科卒業後、家庭の事情で家の手伝いをしていた。ある日、ミサの帰りに神父様に呼ばれ、修道院に行かないかと言われ、すぐ「行きます」と答えた。すると長崎に純心聖母会という修道会があり、ご自分が手続きをするから返事を待つようにと言われた。両親に話すと、父は反対だったが母が賛成してくれたので、返事が来るのを待っていた。翌日、松下神父様が来訪され、学校の手続きも済んだとのこと。一週間後に入会の許可をいただき、一か月後、純心聖母会を訪問し受けいれていただいた。18歳だった。
無学な者をこれまで育ててくださった会と会員の皆様に心から感謝いたします。今後ともよろしくお願い申し上げます。
木鉢教会(長崎市)
現木鉢教会は野原師の時に建てられた3番目の教会。中央の十字架には雨天でも美しい彩りの光が射しこむ近代的な建物である。最初の聖堂は明治42年、信徒14・15家族の頃に数が多かった網場の脇に神ノ島の巡回地として建てられた。高屋根の色ガラスの聖堂で、祭壇は、ぶどうの蔓と房が彫刻され金箔が張られていた。木鉢に信者が増え、ミサのたびに木鉢保育所のオルガンを担いで潮の干満時を気にしながら海岸沿いを岩伝いに運ぶのも大変で、信者数が多い木鉢での建築話が鶴田師の時から持ち上がっていく。
昭和6年、Sr江角が渡仏した年の夏から翌年秋まで、神ノ島教会は司祭不在のために司教直轄となった。次の逸話は、早坂司教様の網場の脇での説教である。高齢者の言葉遣いに驚かれた司教様は、「うんがそん手」というより「あんたのその手」と言った方が優しく、聞いていて気持ちがよい…「うなあ、どけー行くとか」ではなく、「あんたはどこへ行きますか」と丁寧に、きれいなことばを使うように、また子どもたちを上級学校に進ませるようにと話されたという。
教会建設は、山口福太郎師の時に本格化し、中間地で海からも山からもまっさきに目に入る場所を確保。常々司教様は、祖先から受け継いだ信仰を守り続け子孫に伝えるだけでなく、積極的に信仰を現わす人であってほしい、そのために雨にも嵐にもびくともしない堂々たる天主堂をそそり立たせるようにと望まれていたそうだ。木鉢教会は88段登り詰めた見晴らしの良い丘にある。当時、御真影奉安殿よりヤソが高くなると猛反対が起った。自分たちで半年かけて積み上げた石垣は、春の長雨で地響きを立てて崩壊、大きな試練であったが、プロに依頼して12年春に敷地が完成。
「私たちはここに聖堂を建てます」
社会へのアピールも含め、海上と陸上での聖体行列を計画した。山口師は資金集めと要塞司令部の許可、チャッカー船の借り受けに教外者との交渉を担当。信者たちは各役割に誠意と全力を尽くすことを確認。青壮年たちは杉のアーチを作り、桟橋・木鉢入口・教会登り口の3か所に早めに設置。ところが仏教徒が住む桟橋のアーチは無残に倒され踏みにじられていた。新たに造り頑丈に設置した。だが「まさか」が的中、悪の力が如何に大きいかを2度、肌で学び、ますます闘志は燃え、最後の夜は青壮年が寝ずの番をして守った。いよいよ白衣の主日。行列のスタートは蔭ノ尾島教会前、40艘のチャッカー・団平船は万国旗で飾られ、十字架・花蒔娘たちの船を先頭に、聖体を奉持した山口師と侍者、聖歌隊と続き、二列に隊列をなし、高鉾島、神ノ島を通過し木鉢桟橋へと進行。船上から師が聖体を高々に示すと、金色のカッパを着用された早坂司教様はじめ待機していた信者たちは土や砂の上に跪き、一斉にひれ伏して礼拝した。聖歌と祈りの声を響かせながら、要所要所で娘たちが花を蒔き、聖堂敷地に到着。ピエペリカネ、レジナチェリなど三・四部合唱の聖体賛美式が司教様により盛大に挙行。聖体は、前晩12時から午後3時まで飲食を断っていた修院の二人が拝領した。
修院・聖心使徒会の創設
昭和9年1月、山口師は木鉢・一本松に修院(女部屋)を創立。当初の会員は10名。翌年9月に師は保育所を修院のすぐ下に開設し、修院の人が担当した。会員には女学校卒業後、養成所で保母や保健婦の資格を取った人もいて、彼女たちは15年に2階建ての修院を建て、1階を保育室に開放。17年に修院の隣りに保育所を新設。その徹底した積極的奉仕の姿に宗派を越え、地域から絶大な信頼を得ていた。戦後、信徒や地域にとっては残念であったが、かねてから会員のほとんどがトラピスト修道院での生活を希望し、祈り・協議して解散を決議。観想生活の道へゆかれた。
木鉢聖堂・棟上げ式
昭和12年暮れ、新司祭平山庄吉師が着任。師は、聖堂建設資金作りに苦労している信徒の家庭訪問を開始。4教会を担当しながら方々に散らばる家を回り、畑や山で働く親や子どもを励まし、老人、病人には労りのことばをかけた。当時、現金収入がある勤め人はいなくて、畑・山仕事、日雇いに行って働いていた。女や老人は家の食べ物として栽培したさつまいもや野菜、鶏卵などを担いで、峠を越えて売りに行き、潮時にはウニ採りに、春にはつわを採って売り、換金できるものは現金に換えて建設資金に充てた。棟上げ式がやってきた。粉雪が舞い、北風が吹きつける震え上がるような寒い天気だった。平山師は洗いざらしのスータンに破れ傘をさし、吹きさらしの丘にじっと立っておられた。胸に聖体を抱き、工事の安全を一心に祈りながら。工事は順調に進み、木造高屋根84・99坪の天主堂が夕方までには立派に建った。信者たちは柱をなでたりさすったりして喜び合った。もしものために神ノ島教会から聖体を奉持し、病油の秘跡も人知れずしておられた平山師の顔も安堵と喜びに満ちていた。こうして昭和13年6月、天主堂は完成し、聖ペトロを保護の聖人に捧げられた。網場の脇聖堂はその後に解体され、ぶどう彫の祭壇は、新しい教会へそのまま設置された。献堂式の主司式者は山口愛次郎司教様だった。当聖堂は原爆投下の爆風で大きく南側に傾いたが、コンクリートで外を補強し、3番目の聖堂建設まで耐えた。
木鉢では、ふくれまんじゅうを聖ペトロの祝日に作っていたこと、家には石臼があった背景などが今回、理解できた。信徒にとって教会献堂の大祝日なのだ。私の家族は、祖父の死で父が家督相続のために終戦前に横須賀からの帰郷者で、木鉢教会についてほとんど知らなかった。興味津々で読み始めたマツノおばさんの著書は、祖父にも出会え、ため息と深い感動で閉じることができた。先日、教会を訪問し、光彩が美しい十字架の前でゆっくり時を過ごし、先人たちを偲んだ。
稲佐教会(長崎市)
私たちが幼年時代から青年時代にかけて慣れ親しみ信仰を育てていただいた教会は、最初の木造教会である。以下、稲佐教会の30年および50年記念誌を参考資料にして、私たちの教会を紹介したいと思う。
記念誌によると、中町教会から浦上川をはさんで対岸にある稲佐地区は、中町教会に属する地域であった。その地区には大正10年頃から、浦上、五島、平戸、外海などの各地の信徒(多くは隠れキリシタンの子孫)が移り住み始めたという。私たちの両親も昭和初期頃、稲佐地区に住むようになったのではないかと思う。両親は青年時代に中町教会の鶴田源次郎師より洗礼を受け、結婚式を挙げている。
長崎の町は昭和20年に投下された原爆によって大きく変わってしまった。稲佐地区も爆心地から2㎞ほどに位置しているので、多くの人が住まいと職場を失った。
戦後、中町教会付近も軍用自動車の往来が激しく、子どもたちが徒歩で「けいこ」に通うことが危惧されたこと、また、その頃長崎教区はザビエル渡来400周年記念祭に向けて信仰が高揚していたことも相まって、信徒たちの中から稲佐地区に教会を建てようとの機運が高まっていった。
しかし、教会建設の道程は苦難の連続であった。その様子を、のちに稲佐教会の助任を務められた峰徳美師は次のように述べている。「原爆ですべてを失い、失意のドン底にあったにも拘らず、信徒の皆さんはゼロからの出発というよりも、マイナスからの奮起であった。」例えば、「建築資材集めに、稲佐山腹から切り出した木材、石材など、道なき道の運搬。男も女も、汗とほこりにまみれた過酷な作業。そして、ついに1950(昭和25)年4月、自分たちの手でつくりあげた教会の献堂式が行われた」のである。しかし、それほど辛苦して建設した教会も25年ほどたつと老朽化し、信徒の増加で手狭となり、より大きな堅固な教会が必要となった。そのため、信徒たちはまたも自分たちの生活費を削って、教会建築に献身し、ついに1971(昭和46)年に鉄筋コンクリート4階建の教会を完成させた。そしてその後、46年経過して老朽化が目立ち始めた教会を、この度2017(平成29)年9月、さらに機能的で美しい教会へと改修したのである。
稲佐教会が小教区となった1962(昭和37)年から、中田主任神父のもとに、若い助任神父が1年ないし2年位の任期で赴任してこられた。峰徳美師、下村徹師、小島栄師、野下千年師、川上忠秋師である。助任神父たちのおかげで、新鮮な信仰の空気がイキイキと稲佐教会にもたらされた。助任神父たちはその頃の外面的な教会の貧しさに驚きながらも、青年信徒たちとの活動に意欲を燃やしておられた。野下師は次のように述懐しておられる。「実はそこには、これらの悪条件(教会と司祭館の老朽化)を乗り越えて、明るく力強い信仰共同体が息づいていたのです。幼稚園施設は、土・日曜や夜の時間帯には、子どもたちの教会学校や信者たちの会議、レジオ・マリエ集会、青年会やカトリック青年労働者の使徒職JOCの会合など、連日のごとく司牧宣教の両面に有効活用されました。…週平均延べ70人にのぼる人々が、平日のこの粗末で不便な教会に集まり、信仰養成と教会奉仕に勤めたのです。ことに高校生を含む稲佐教会青年部の活躍は教区でも光っていました」と。
このような教会の中から、2人の司祭と6人の奉献生活者が誕生した。2人の司祭とは、1981年に来日された教皇ヨハネ・パウロ2世から叙階された烏山邦夫師と岩村知彦師である。また、奉献生活者は、Sr畑中美恵子(大阪聖ヨゼフ宣教修道女会)、Sr吉田鈴子(カノッサ修道女会)、Sr長江節子(イエスのカリタス修道女会)、Sr江川由美子(聖ドミニコ宣教修道女会)、Sr平山紀子・久美子(純心聖母会)の6人である。今後も稲佐教会から、聖職者や奉献生活者への召命が恵まれますように。
参考資料
『光への旅路―稲佐カトリック教会創立30周年記念―』昭和57年
『光への旅路―稲佐教会献堂50周年誌―』稲佐カトリック教会、2000年
滑石教会(長崎市)
滑石の町
私が所属している滑石教会は、滑石の町の中に建っている。前には小学校、後ろは保育園、他近隣にはショッピングセンターや銀行、郵便局、病院まで、徒歩で行くことができる範囲内にある程度そろっているところである。新興団地の中心地にある滑石教会の信徒数は、2016年12月31日現在3761名である。土着の信徒は皆無で、他の小教区からの転入者がほとんどと言われている。
滑石教会は、長崎教区が設立されてから24年後の昭和45(1970)年、滑石団地の開設に伴い西町教会より分離・独立した。初代の主任司祭、深堀明義師が着任されたのが同年9月1日。翌年9月に二代目主任司祭として、萩原劭師が着任され、同年12月、里脇大司教の司式により献堂式が行われた。昭和49年にヨゼフ館(司祭・信徒会館)が落成され、昭和63年には聖堂入口に車いす用のスロープも設置された。
現在の新聖堂は、旧聖堂の老朽化と信者数の増加に伴い手狭になったため、平成19年6月に建設を開始し、翌年6月に完成、献堂式が行われた。また、新聖堂が建つ4年前の、平成16年には巡回教会である「さくらの里聖家族教会」が献堂されている。
滑石教会の歴史を振りかえると思い出されるのが、旧滑石教会に併設されていた「長崎聖母幼稚園」である。宮崎カリタス(現イエスのカリタス修道女会)の経営で、昭和44年11月より平成18年3月までの36年間、教会と歩みをともにしてきた。幼稚園のころのことはあまり覚えていないが、それでも私の記憶に残っているのは、年長組で初聖体の勉強をしていた時だろうか、幼稚園の下駄箱の前を通って教会の方へ歩いていくと、教会の横の出入り口につながっており、みんなで二列に並んで静かに聖堂に向かっていた。幼な心にも「今からはおしゃべりはしてはいけない」と、静かに手を合わせて歩いて行ったのを覚えている。
また、小学生になると毎週土曜学校にも通っていた。幼稚園の園舎を使って行われる授業に参加し、終わると園庭で遊びながら兄を待っていた。始業式や終業式は教会の中で行われていたが、当時は子どもの数も多く、聖堂の椅子が一番後ろまで全部うまってしまうほどであった。
私が幼いころから慣れ親しんだのは、旧聖堂である。白い壁で青い屋根の聖堂は、家庭的な雰囲気があった。母に聞いてみると、両親も結婚を機に滑石教会に籍をおいた転入者で、他の信徒さんを見ても50歳代から70歳代前半の方々が多く、後期高齢者はあまり見かけないことに気付いた。
子どもだけでも教会がいっぱいになっていた旧滑石教会は、普通の主日のミサの時でも、下駄箱から教会入口まで入りきれないほどの信徒であふれかえっていた。そのためか、毎年、クリスマスのミサの時はバンコが取り払われ、正座で詰められるだけ詰めて座っていたのを覚えている。
幼いころからシスターと関わり、直接にシスターから声をかけられて修道召命へと導かれた私ですが、教区の神父様をはじめ、たくさんの信者さんからも支え励ましをいただいていることを強く感じている。特に、お祝いの時には、教会をあげてお祝い会を催していただいた。昨年度までは父が教会の役員に携わっていたこともあり、帰省や教区行事のたびに信者の方に声かけや励まし、「祈っていますね」等の言葉に大きな支えも感じながら、感謝のうちに毎日を精一杯過ごしている。
カトリック滑石教会HP
『滑石教会40周年記念誌』
『長崎聖母幼稚園記念誌』
「カトリック教報2016年12月号」
城山教会(長崎市)
私の出身教会、城山教会は聖アウグスチノ修道会の司牧小教区です。日本にアウグスチノ会宣教師が来日したのは、1584年で、キリシタン迫害の始りのときでした。長崎には1612年に教会と修道院を建てましたが、後に取り壊され、現在万屋町にサン・アウグスチン教会跡が残されています。1637年までの間に24人の会員が殉教し、その中には大村湾鷹島(時津近くの無人島)で首を切られ処刑されたエルナンド神父様や西坂で殉教した最後の会員とトマス次兵衛神父様がいます。
迫害時代が去り、1952年再び日本の地にアウグスチノ会宣教師が来日し、1955年に戦後の復興が進んだ浦上教会から分離独立し、城山教会が誕生しました。現教会は二代目の建築で、2000年12月17日に献堂されました。教会内にはキリシタン迫害時代に日本人の信仰の灯火が消えてしまわないようキリストに倣って良き牧者として羊のために命を神に捧げた聖アウグスチノ会の福者、殉教者の額が置かれていますので、教会を訪れた際にはぜひご覧ください。
日本の厳しいキリシタン迫害時代を耐えた信徒の信仰を支えたのは海外からの宣教師の殉教覚悟の司牧あってのことだと改めて感じさせられます。
幼いころから同じ宣教精神に生きておられるアウグスチノ会の神父様方やブラザーから教会で、あるいは隣接する幼稚園、小学・中学校で宗教教育を受けることができたのはとても恵まれた環境であったのだと今さらながら実感し感謝しています。ブラザーの仕える姿はいつも見習うべき姿であるとして、励ましの力をいただいていました。少子高齢化の波はアウグスチノ会にも押し寄せていますが、受け継いだ信仰の遺産はしっかり引き継いで、次に渡していきたいと思っています。
今思えば失礼な話なのですが、幼い頃は外人の神父様が司祭と思っていたので、浦上教会の日本人の神父様の存在が不思議でした。また幼いころ、神父様に「この中で神父様になりたい人は?」と尋ねられた兄弟とともに手を挙げたわたしに「あなたはシスターね」と丁重にお断りされていたと大きくなって母から聞かされました。その他、兄弟とミサごっこをして神父様の真似をして遊んだこと、小学校の帰り道、友だちと教会に立ち寄ってお祈りしたことなど、幼少期の教会に関する思い出が懐かしく思い出されます。
城山教会は慰めの聖母に捧げられた教会で、油木の小高い丘の上に慰めの聖母の墓地があります。毎年、死者の月には墓地ミサが挙げられます。信徒の方も高齢化し、階段を登っての墓参りが難しくなってきました。幸い、道路の整備が進んだ現在、西町に抜ける道ができ、車でも別方向から墓地近くまで行けるようになりました。今では駐車場所が問題のようです。
司牧の神父様、ブラザー、信徒の方々の高齢化は城山教会だけの問題ではないと思います。いただいた信仰の遺産は、高齢化することなく与えられたみ旨の場においてみ国がきますようにとの祈りのうちに歩んでいきたいと思い ます。
長崎県佐世保(潜竜教会)
位置
潜竜は、佐々町にあるが、佐々町は、長崎県の北部に位置し、周辺を佐世保市に囲まれ、国見山(佐世保市世知原町)に源流を発する延長21・9㎞に及ぶ佐々川が町の中央を北東から南へ貫流し、これに沿って町が展開している。時代の推移とともに発展を続け、特に大正から昭和にかけての炭鉱全盛期には、人口が2倍に膨れ上がるほどの勢いで急速に発展し、昭和16年1月には町制を施行して県下屈指の町として繁栄した。この潜竜から本会に修道召命をいただいたのは5名がいる。また、司祭として潜竜より竹山徹・明神父、神田より古川武信神父、西木場より山口武神父が潜竜教会の出身者である。
潜竜教会の歴史
潜竜教会は、戦後盛んになった炭鉱の発展に従って必要となり建てられた。初めは住友鉱業の住宅を会社が提供してくださったので、改築して教会として使用されていたが、1952年に現在の場所に、信徒たちの自らの出費と努力によって聖アウグスチヌスに捧げられた潜竜教会が新しく建立された。資料を見ると、歴史をさかのぼり潜竜ははじめ神崎教会の巡回教会であり、1928年から1952年までは、神崎の主任神父様(片岡吉一・中島万利・鶴田源次郎・熊谷森市・畑田秀補神父様方である)がミサに来てくださっていた。小教区として独立するほどの信徒数となり、1952年より濱崎数雄神父が、1955年より中田武次郎神父が、田平教会助任として潜竜・神田・西木場の3教会を担当して下さった。潜竜教会の主任神父として着任されたのは村岡正晴神父様で、1958年4月より1970年4月まで12年間お世話になった。1954年10月潜竜教会が現在地に竣工され当時、主任司祭濱崎数雄師の要請により1955年4月より、「純心聖母会」の支部修道院が開設3名のシスター方が派遣され、聖母幼稚園が併設された。この3名のシスター方はご健在であるが、1968年3月、純心聖母会が修道院を廃止した。この間、私たちのそれぞれの召命は、主任神父様をはじめ、純心聖母会のシスター方の存在が大きく影響していると思われる。
潜竜教会の特徴
潜竜は、他の教会と違い広い地域に信者が散在しており、集落として信者がまとまっていないのが特徴である。それぞれの地区にミサをする場所があり、江迎は、江迎署長平野武光氏の署長官舎で、後には馬込善一氏のお力添えで江迎教会ができた。また、神田教会は、新日鉄の社宅であった髙平家を開放してミサをしていただいていた。その後、会社のご好意もあり、隣の家に引っ越して、教会としてそのまま使わせていただくことになった。吉井地区は金子家でミサがあった。遠方から来る信者の為に、主任神父様が定期的に、それぞれの地区を巡回してミサをしてくださった。時々であったが、純心のシスター方も一緒に来られ、祈りをともにしてくださった。交通の便も良くなり、1968年頃までには各地区の巡回教会は閉じられ、潜竜教会に信徒たちは集まってミサに参加していた。ただし、江迎教会は、1958年村岡神父様によって仮聖堂が建てられ、1976年に竣工。翌年1月23日里脇大司教様祝別(主任司祭、古川武信神父)され、2015年4月29日閉堂した(主任司祭、小瀬良明神父)。
召命の恵みをいただいて
教会学校は、土曜日の午後から、江迎、猪調、潜竜、吉井、神田などから集まって、学年別にシスターに教えていただいた。公教要理の問答式の本の暗記が多かったように思う。皆と遊べるのも楽しみの一つだった。夏休みは、当時神学生だった竹山昭師、古川武信師、御厨の山口武師などのお話しがあったり、聖母の騎士の神父様のお話、映写などあり記憶に残っている。教会活動も、青年会や婦人部が、活発で活気に満ちていた。中田神父様は、いろいろな行事や教会学校の私たちの様子を写した幻燈をしてくださったり、主任神父の村岡神父様は、ミサの前後に聖歌練習があり、テープに吹き込み、自分たちの歌声を聞かせて下さったのは、斬新で印象深く残っている。
潜竜教会で、私たちの信仰生活を導き育ててくださったのは、神父様や純心のシスター方のおかげであり、私たちが大きくなっても、要理の勉強を通していつもあたたかく声かけをしてくださったり、見守ってくださり、そのお姿を見ながら私たちの召命を育てていただいたと思っている。
上五島(折島)
折島は、新上五島町の青方湾に浮かぶ島である。私の終生誓願宣立2年前の1976年に青方の町営住宅「折島団地」への集団移転を機に150年の歴史が閉じられた。移転は、1960年代から人口が急減し、数年後には分校は廃校となり過疎化が進行。慢性的な水不足、子どもの教育の将来のこと、急病人を運べる人がいなかったことなどで、移転の話が持ち上がった。私は移転前のこの島に生を受け、召命の恵みをいただいた折島について、思いを巡らし記そうと思った。
折島は東西400m、南北に1km、面積0.71㎡の小島で、南北2つの山でできている。折島という名は、まん中が折れているような格好をしているところから名づけられたと言われる。折島に最初に住み着いたのは、大村領外海から五島福崎に移住し、さらに何回も転々と移り歩き、キリシタンに対する差別と迫害から逃れて、最終的に辿り着いた白濱弥造たち10戸であった。ここを信仰の安住の地とするために、弥造たちは険しい地形を開墾して畑を造成するなどして島を形成していった。当初、折島は浜ノ浦の地主の所有であったので、1880年に共同出資で800円で島を買い求めた。「800円島」とも呼ばれた由縁である。当時として安い価格でなく、網上げの川口氏から借りて10年がかりで皆で返済した。それからやっと自分たちの土地として、信仰一途の生活が始まった。
今回、系図を調べると弥造の子どもが八十吉、ハマ、トメ、忠右衛門、マセの5人で、トメの子どもが今は亡きフランシスコ会の冷水神父、マセの子どもが私の父であることが分かった。島に教会ができるまでは弥造の弟福松の家が教会代わりに使われた。島で一番大きな家で、しかも島の中心部にあったからだった。故山口大司教様もこの家でミサを捧げられたとのこと。1924年に鯛之浦教会主任に赴任された時代のことかもしれない。最初の教会は昭和5年に献堂、司祭不在の巡回教会で、月に1・2回ミサが捧げられた。ほら貝の音がよく聞こえた。島全体に本土の大曽教会から司祭(当時原塚神父)が来られ、ミサが捧げられる。貝の音はその合図であった。ミサがない時は皆で教会に集まり、共同で祈る。日曜日だけ月の聖母月、10月のロザリオの月や四旬節の道行等。普段は各家庭祭壇を囲み、祈りが捧げられる。日曜日、凪の日であれば伝馬船に乗り込んで大曽教会に行く。30~40分かけて海上を渡る。大型船とすれ違う時は大変。大波を被ったり沈みそうになって、恐い瞬間を何度も経験した。黙想会の時も2日間は通う。大人も子どもも伝馬船2~3艘に分かれて。今考えると、あの海を小さい舟でよく渡ったものだと感心する。
信者部落でも信仰を守っていない方もある。その方々の最後の一例をあげてみると、信者であったが、一度も教会に姿をみせなかった。その方の最期は、皆で葬儀は行なったが、お墓が祝別された墓地内ではなく、墓地の外に埋められた。そのことを目にした時、心が痛んだ。増々信仰を固めることを意識させられた。
島の日常でライフラインの普及は遅れていた。まず水不足に苦労は絶えなかった。夏になると渇水が多く、他の部落から船で積んできて、一バケツ5円で買って生活した時もあった。電気など、考えられなかった。ジミ芯のランプの灯りをよく使った。風呂の水は雨水を確保する工夫を行ない、炊き出しには薪を割って使用。洗濯は海上で粗洗いをし、最期の仕上げに水を使用。
召命に関しては、冷水神父が私の召命に大きく関わってくださった。また大阪教区の山田國吉師が病気療養のために1年ほど島に滞在され、その間、要理の指導やミサ等捧げてくださった。この要理の時に話された内容は種まきの例えなどで、その時はまだ聖書を知らなかった私。志願院に来てはじめて聖書を手にしたとき、この話だったのかと夢中で読んだ。
島に残っているエピソードであるが、密作の弟伊勢藏は大変な力持ちだった。浜ノ浦から7人がかりで運んできた石仏を「拝め」と強制されたが、これを一人で担いで島の北端にある千畳敷の絶壁から放り落としたという。
先祖の系図を初めて知り、改めて信仰の恵みをいただいていることに心が震えた。先祖が命がけで守り続けた信仰に恥じない生活を固めていくことに心をとめ、島の人たちに心を寄せながら邁進していきたい。
三ツ山
三ツ山とキリスト教の関係は定かではないが、1620(元和6)年、仙台の伊達政宗の使節支倉六右衛門常長の一行がヨーロッパから帰国したが、仙台にも迫害が起こっていると知り、随員松尾大源(?見家はその子孫といわれる)、黒川市之丞、黒川六右衛門らはそのまま長崎に留まり、木場に住み、キリシタンの信仰を子孫に伝えたという説がある。また平戸藩の家老、原田善左衛門は信仰を守るため、木場に逃れてきて六枚板に住み着き、住民に教えを述べ伝え教化していたが、このことが大村藩に知れ、夫婦とも川平の難河浦(なんごうら)で火刑により殉教したと伝えられている。このことは記録に残されていないが、木場の信徒たちの間には、江戸・明治時代を経て、ずっとそこが「殉教地」だと伝えられており、毎年、旧暦3月17日に墓参りしていた。いずれにせよ、木場にキリシタンを受け入れる地盤があったことを物語っている。
1947(昭和22)年、清水佐太郎師のころ、この墓から寝せ棺にはいった遺骨が発見され、?見家で保管されていたものを西坂に26聖人記念像等が建てられた1962年に同記念館に預けられた。後年、このことを聞かれたバリヨヌエボ師は、1977(昭和53)年、「木場教会殉教者顕彰の碑」を建立され、遺骨をそこに納められた。
木場での迫害は、浦上崩れがある度に飛び火し、殉教者が出た。特に大きかったのが浦上四番崩れの後に起こった木場の三番崩れであった。?見多四郎ら125名が大村の唐人牢にいれられた。牢では拷問はなかったが、飢えと寒さのために弱い子どもや女性たちが先に命を落としている。
3年間の入牢中、55名が亡くなった。このような状況下、このままでは身体ばかりか信仰も守り通せないと心配した多四郎ら5名が脱牢をはかった。2名は連れ戻されたが、逃げ延びた3名は浦上の一本木(本原)に潜んだが、浦上は総配流になり、田川友八は大浦天主堂に隠れた。
その後、香港に逃げる小神学生たちに同行し、香港で石版印刷を勉強した。帰国後、ド・ロ師の印刷を手伝っていたが、後に浦上天主堂の賄になった。常太郎は、高島に渡り、後に黒崎へ移住した。多四郎は大阪へ行き、川口教会の受付をしていた。1872(明治5)年、信徒たちは許されて木場に帰った。大村の牢から生きて帰ったのは70名である。翌年、禁教が解かれ、多四郎も大阪から帰った。家も田畑も人手に渡り、山の木々も伐採されており、帰郷者たちは皆、生活苦にあえいだが、多四郎は信仰が薄れゆく信徒のために寝食を忘れ、伝道に励んだ。
1888(明治16)年に浦上教会のポワリエ師が木場に出張して聖務を捧げてくださったのを機に、木場にも祈りの家を建てようとの機運が起こり、犬継・上床に木造の仮聖堂を建立。しかし台風に飛ばされ、2年後には元キリシタン逃亡を監視する場所だった横目屋敷を多四郎が買い取り、上床の聖堂を移築した。ペルー師の指導で祭壇を増設、天井を柳張りに取り換え、聖堂としての形を整え、クザン司教により祝別。イエズスの聖心の保護をいただいている。昭和の半ば、火災で一部類焼、老朽化もあり、現在の地に新築した。多くの教会と同じく、信徒は労力を提供して、まず敷地を完成し1962(昭和37)年、教会が完成した。
三ツ山教会は純心との関わりも大きく、その始まりは戦前、故永井隆先生からの勧めで疎開地として三ツ山の地を買い求められたことである。原爆投下の日、松脂取りにきていたことは皆さんご存知の通り。その後、老人施設、原爆ホーム、短大移転、純心聖母会本部落成など、ますます関わりが深くなっていった。旧木場教会から三ツ山教会になったころ、子どもたちの要理を担当するためにシスター二人が毎週、バスで通うようになった。大石キミ子は、「バスは当時、犬継(教会の下)が終点であったが、江角会長様から一つ手前の六枚板で降りて歩きなさいと命じられていた。川に架かっていた橋が古くて、いつ壊れるか心配されたようでしたよ。」と思い出を話してくださった。?見大司教の要理教育を受け持ったのは岡?幸子で、おふたりとも当時を鮮明に記憶されている。以後、50年余りに20数名にお世話になっている。信徒たちも純心の施設のあちこちで、雇用人として、入居者としてお世話になっている。
430年、生活の中に根付いてきた先人たちの血と祈りと犠牲に支えられ、三ツ山教会から4名の司祭と6名の修道者が出ている。召命のきっかけは、その当時の司祭やシスターの呼びかけだけでなく、その生き方に憧れた結果でもある。キリストのために殉教して逝かれた人々の実りが少しずつ確かになっていくことを祈りつつ、召命の道を歩む者を送ってくださるように願う。
参考文献
片岡弥吉著『長崎の殉教者』
『三ツ山教会献堂50周年記念誌』
佐世保(三浦町)
三浦町教会は、長崎の信徒発見から32年後の明治30年に、佐世保(谷郷町)に2階建ての木造家屋を借りた「天主公教会」が片岡桐栄師を初代主任司祭として歩み始めました。その後、大正10年に三浦町に土地を購入し、昭和5年から6年にかけて教会建設に入ります。同時期に司祭館、幼稚園の建設も行われ、建設中の教会の後方に幼稚園が写っている写真が献堂50周年誌に載っています。教会と幼稚園は多少の改築は行われていますが、現在に至るまで建設当初の姿を残しています。
教会が完成するまで幼稚園を仮聖堂として使用していた記録があり、幼稚園には純心聖母会の入会を希望していた2人(中田チヤ、大泉はる姉)がおられ、純心聖母会の創立(昭和9年)までの期間に、二人とも保母資格を取得されています。純心聖母会が創立されると二人は引き上げられ(入会のため?)愛苦会の方たちが幼児教育に当られていたと伺っています。教会建築のため、主任司祭脇田師(後の横浜教区長)は寄付集めに全国をまわっておられますが、「着任早々の早坂司教様の英断と熱切な御後援に感激し主任司祭が寄付を集めるための全国の信者の篤志家たちに連なるべく、行脚の旅に出かけ、激励と多大の喜捨とに恵まれ二か月後に佐世保に帰ってきた」と早坂司教様の支えを知ることができます。昭和6年12月に教会堂が完成し、12月8日の祝別式が行なわれた教会は第二次世界大戦の過酷な時を迎えます。「佐世保大空襲」で町がほとんど壊滅状態になりましたが、崖地の高い場所にもかかわらず教会は、破壊されることなく今に至っています。ただ、大戦中、教会の外壁は真っ黒に塗られていたそうです。
さて、町の中心部に在る教会にとって「聖心幼稚園」の存在は大きいものです。初代園長は早坂司教様です。信徒の子どもたちは、ここで初聖体の準備と聖体の秘跡を受け卒園します。堅信の準備は、今はシスターが行っていますが、昔は、Sr谷口洋子の父上がなさっていました。場所は、幼稚園の一室です。教会と幼稚園はともに歩み、教会行事、幼稚園行事はみんなのものでしたし、宗教心を育み召命への道を目覚めさせる大きな存在が幼稚園です。この教会出身者のわたしたちは、小さい時から信徒にシスターに見守られていつの間にか召命の芽は育まれていたと感じています。信徒は広い範囲に拡散しており徒歩で通うことが難しい状況の中、昔と比べれば毎日のミサ参加者はずいぶんと少なくなっていますが、できる方法を使って参加し、特に召命のための祈りは日々欠かさず祈られています。時折、ミサに参加するとその祈りに励まされ、この教会の一員として育てていただいていることへの感謝と、後輩を送ってくださいとの祈りを心ひとつにささげます。召命を育ててもらった幼稚園が閉園することは、ここで育ったんだと伝える場所が一つ消えるのだから寂しさがあります。卒園してから洗礼の恵みに与る人は、少なくありません。これからも蒔いた種が多くの実を結びますよう、新たな歩みを始めている佐世保修道院に新しい福音宣教への希望を託し、応援をしたいと思います。
三浦町教会には一時期、巡回教会がありました。天神教会です。1931、32年(昭和6、7)五島、平戸、黒島、長崎方面から佐世保の天神地区(天神・東浜周辺)に移住した信者の家族で始まった教会です。最初の移住者の一人がSr池田洋子の祖父、池田義房様です。最初のころは、交通機関も家庭の経済状況もよくなく、遠い道のりを三浦町教会まで徒歩で通う状況でした。
1947年(昭和22)、要理のできる場所が欲しいと公会堂(天神祈りの家)が信者の手によって建築されます。司祭はミサのために信者の家に泊まりがけで通い、要理には伝道師の谷口さん(Sr谷口の父上)が通われるようになります。1974年(昭和49)に新しい公会堂が天神祈りの家としてできあがりますが、1986年(昭和61)カトリック天神教会として教会が建築献堂され、今に至っています。Sr池田は、今回歴史を学ぶことによって自分は先祖がすべてをかけて伝えてくれた信仰をいただいていること、生かされていることを本当に感謝すると同時に、わたしは今の時代にどのような宣教ができるかを問われているように思ったとのこと。
三浦町教会も天神教会も高齢化と信徒減少は大きな課題ですが、受け継がれている信仰は決して消えることがないと希望をもって、これからもともに歩んでいきたいと思います。信仰の尊い遺産に感謝しながら。
参考資料 三浦町教会『献堂50周年誌』『天神教会の歩み(聖ヨゼフ教会・祈りの家から小教区へ)』
五島 桐
五島 桐 「天主様第一」の生活
一日の始まりはミサの寄せ鐘で起き、聖堂へ急ぐ。入り鐘で朝の祈り、続いてミサ。帰宅して朝食後、子どもたちは幼稚園や学校へ急ぐ。
幼稚園での大事なことは初聖体。教会近くの部屋(今のお告げのマリア会)に母親たちも集まり、子どもを着替えさせて聖堂に並んで座ると、朝の祈りが始まった。先唱は幾人かの男の子たち、文字を知らないから暗記。長い祈り文を覚えさせるため、家族も長い間、毎日時間をかけて覚えさせたに違いない。私は初告解の練習を母にさせられたことを思いだす。小学校へ進むとけいこがある。けいこの前後に聖堂周辺で遊びに興じ、その面白さだけ記憶に残った。しかし6年生の夏の堅信の前に、新米の神父様が熱を込めてイエス様のお話をされ、イエス様の愛、苦しみが心に響き、足のおできの痛みをこらえて正座した覚えがある。
青年会処女会は降誕祭の飾りつけ、運動会で仮装行列、学芸会で寸劇など会場を盛り上げた。桐の隣は異宗教の奈良尾町であまり交流はなかったのであるが、どうした風の吹き回しか、奈良尾町で聖エリザベットの聖劇をした。私も子役で駆り出された。
桐は半農半漁の自給自足、一年分の主食、芋や麦、野菜を作り、多くの男たちは漁をしていた。現金収入はあまりなかったが、信徒は、神父様の「まかない」(食材の提供)には、自分たちは貧しくても良い食材をと、心を砕いていたようだった。結婚や葬儀の時は、外に「くど」を作り、大きな平鍋で炊き出しもしていた。そうした生活の中、折々に祈りが組み込まれ、子どもの信仰教育を重要なこととし、子どもたちはおとなの敬虔な祈りに誘い込まれ、天主様が第一という価値観が刻まれたと思う。
私の父は29歳で養子となり、そのころから宣教師フューゼ神父様の下、宿老として教会や郷民の諸問題に従事していたようだった。私が物心ついた時も、昼間はほとんど家にいなかった。母は家族を養うため身を粉にして働いたから、貧しくても食べ物には事欠かなかった。また奈良尾町入口に通じる道脇に家があったので、戦後間もない頃、いろいろの方がわが家に立ち寄った。食べ物の無い人には持てるだけのものを持たせ、虚無僧には茶碗一杯の配給米を首に下げている袋に入れていた。行商の人は家に泊まらせた。貧しいから特別なことは何もしない、ただ家族同様だった。
父は夜帰り、たいていは酒に酔っていたが、夕の祈りの先唱をしていた。天主様を敬い尊ぶ心が全身にあふれていた。祈りの結びに205人の日本の尊き殉教者が加わった。父は信仰の弾圧のなかで生き抜いた親たちを見ていたし、桐のためすべてを捨て、命をかけたフューゼ神父様の下にあったのだから、家族のことよりも教会と郷全体のことを優先したと思う。私は、父の仕事に無関心で、父が何をしているのか知らなかったが、父の埋葬時に、神父様が平和のために働いたと言われたので、ああそうだったのかと思った。
そして「右の頬を打たれれば左の頬も向けよ」とか、「一升も二升も涙を飲んだ」と父が言ったことがあったのを思い出した。こうした貧しく厳しい生活条件の中で第一に天主様を敬い愛し、「人をもわが身のごとく」を生きたおとなたちの生き様が子どもの頃、私の脳裏に刻まれ消えることがない。それはみ手の業。新しい宣教も主のみ手の業。一人ひとりの心の奥に現存され、全被造物の中に現存される主のみことばに耳を澄ますことから始め、信じて単純に聴き従うことと思う。
九州地区
鹿児島・鴨池教会
私は鹿児島市鴨池カトリック教会出身です。教会の歴史は浅く、2002年に第2代目の教会献堂50周年を祝い、今年69年目を迎えます。初めは1952年に木造長屋の仮聖堂が落成、出口教区長様が主任で被昇天の聖母に捧げられた教会で53世帯、信徒数155人で誕生しました。零からの出発で食料無し、機械力無し、お金無しなど難儀を一つひとつ乗り越えて創立されました。
1955年には聖母幼稚園が発足。翌年、4代目の田原章神父様が着任され、待望の新幼稚園園舎が落成されました。叙階後の若い田原神父様は子どもが大好きで子どもたちにもよく関わってくださり、何でも率先してなさっていました。その神父様のもと、私は8歳から小学6年生まで土曜学校と日曜日のミサに通った懐かしい温かい思い出がよみがえってきます。土曜日は学校から帰り昼食を終えると弟たちと一緒にいそいそと教会に行き、各方面から集まった子どもたちと園庭でおもいっきり遊び、その後、神父様と純心のシスターのクラスに分かれて神様の話をききました。教会の仲間たちはなんの遠慮もなく、打ち解けて楽しく遊べる仲間で、土曜日が来るのを首を長くして待ったものです。公教要理は厳しいものではなく、紙芝居や簡単な聖人のお話などでした。また要理が終わると、陽が沈む時まで時を忘れて遊んで別れるということが土曜学校の楽しみでした。その遊びに神父様も加わり本当に楽しい教会でした。
日曜日は一週間に1度、叔父や叔母、いとこや知人に会えるうれしい日でした。みんなからあたたかい声をかけられ、心満たされてミサに与った喜びとみんなに会えて元気をいただき、家族そろって家に帰ったものです。とくに純心の敷地のなかで生活していたので、親戚とも会う機会が少ない私にとり、土・日曜日は大きな喜びの日でした。叔父や叔母たち、また教会のみんなが誰でも声をかけ合う家族的な教会共同体でした。平日は、純心のシスター方、志願生、寮生の方々と一緒に純心のチャペル(洋風で趣のある聖名会の建物)で、ミサに毎日与っていました。ミサ以外でも度々、志願生と生活をともにしたり、シスター方と散歩したりとさまざまな関わりで、喜びを沢山いただいた時でした。わたしの召命の原点はここにあります。
教会のクリスマスの夜中のミサのあとには、婦人部の方がカレーやうどん・ぜんざいを作ってくださり、ミサのあと狭い園舎のなかで楽しく賑やかにいただき、体と心をあたためて帰路についたことなど生き生きした温かい共同体であったことが懐かしく思い出されます。当時活躍していた方たちは、ご高齢になり、また多くの方が天国に召されて逝きました。
出身教会を調べているとき、ふと疑問に思ったことがありました。鴨池教会が創立されるまでは、信者の方々はどこの教会に行っていたのでしょうかと。それはまぎれもなくザビエル教会でしかないのです。それでザビエル教会のことも調べてみました。1549年にフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸した後、多くの宣教師が鹿児島にも宣教に見えたのは当然ですが、教会の建物として建立されたのは、ラゲ神父様によることがわかりました。
ラゲ神父様は、パリ外国宣教会会員で1896年、42歳のとき鹿児島で宣教開始。1902年東京築地教会に「佛和会話大辞典」を出版のため転居。1908年(明治41)、同書の売上金で聖フランシスコ・ザビエル教会を現在の場所に建立されました。本格的な石造りの教会としては日本最初のものです。写真でみるかぎり、頭ヶ島教会を見るような教会の姿です。
1945年ザビエル教会は空襲で外壁だけを残して焼失。焼失した教会は1949年(昭和24)ザビエル来鹿400年を記念して、木造建築の赤い屋根の聖堂に再建されました。献堂式には「ザビエルの聖腕」とともに欧米から100人をこえる巡礼団も参列しました。(現在、福岡の宗像の黙想の家に80%に縮小されて保存)
戦後の荒地に赤い屋根の教会は特に目立ち、多くの人に愛され親しまれた教会でした。鴨池教会が建てられるまでは、信徒は市内各地からザビエル教会に足を運んでいました。戦後、奄美から鹿児島市内に移住する信者の数が増え、それに対応するために建てられたのが鴨池教会でした。
参考文献 『カトリック鴨池教会のあゆみ』
奄美・名瀬 名瀬聖心教会
奄美市名瀬聖心教会が私の信仰教育の拠点ともいえる。明治24年パリ外国宣教会フェリュ神父により宣教が始まったという。私の小学生のころは、コンベツアル聖フランシスコ修道会のゼロム神父がおられ、日曜の説教の姿は幼い私にも強烈な印象を残している。要理担当は、ショファイユの幼きイエス修道女会のシスター方で、大型掛け図を用いて楽しかったという思い出がある。ある日の要理の時間に、「神父様になりたい人」「シスターになりたい人」と尋ねられ、周りの子どもたちがバンバン手を挙げていたので、私も挙げざるを得なくて半分だけ手を挙げた。その頃、転校生で修道院から通っているUさんを含む3人が仲良しになった。3人の夢は、シスター看護師になって日本中の貧しい病人を無料で診察、病気の手当をすることだった。また某修道会志願生だったが化粧したことで家に帰ってきたという先輩がいた。彼女の聖体拝領後の美しい姿を見るのが楽しみであった。
忘れられない二つのこと
①ある夜、夢を見た。わが家にイエス様を迎える夢であった。子どもたちだけでテーブルの用意をした。私は、「ここはイエス様のところ」といいながら椅子を置いたのだが、まるで聞いていたかのようにイエス様がそこに座られたのだった。
②春休みに友だちと幼稚園のブランコで遊んでいたときのこと。シスター方全員でジャングルジムのペンキ塗り替えをしていた。そこに「だあれ、ここ塗った人?」「はーい、私」「半分残っているわよ、やり直し」「はーい」(笑い)それだけの会話だったが、妙に心に残った。それからしばらくしての夏の夜、シスターになりたいと言った私に父は笑いながら、あの人たちは化粧もしないのにあんなにきれいだ。よほど厳しい修業をしていると思うが、できるかと問いかけた。
時を経て、鹿児島から叔父が遊びに来た時、娘二人が鹿純の志願院に行ったことを知った。その2年後、父の転勤が私の志願生としてのスタートになったのである。
召命のルーツを考えると他にも思い出されることがある。
曾祖父は神父さんの世話をしていた。七面鳥を屠ったり、パンを焼き、唯一ラテン語の分かる人で神父のカバンを持ち、馬でミサにお伴していたという。
思いめぐらし
ともあれ、私への呼びかけは実に多くの人を通して届いたことへの感謝の念が深まった。この呼びかけは今日も絶えることなく続いている。これを心に銘記しながら、この路を及ばずながら歩んでいきたいと願う所存である。
日南教会(宮崎)
「土地の召命」―鹿児島―というテーマで依頼を受けたのですが、父の仕事の関係で南九州を転々として育った私にとって、召命の種を撒かれた土地は?と考えると、やはり受洗の恵みをいただいた信仰のふるさとは、宮崎県の日南教会だと思いましたので、こちらについて書くことにしました。
最初の種
私は昔五つ子ちゃんで有名になった鹿児島の市立病院で生まれ、4歳で近くの私立幼稚園(無宗教)に入園しました。また、近所にアメリカ人だったと思いますが、プロテスタントの牧師さん家族が引っ越してきて、土曜の午後子どもたちを集めて、賛美歌を歌ったり、聖書のお話をしたりしていたようです。終わりにとてもきれいなカードをもらえるのが嬉しくて、まじめに通っていた私でした。実はキリスト教信仰の最初の種はここで蒔かれたのかもしれません。
教会との出会い
年長になる時、父の転勤で宮崎県の日南市に引っ越しました。そこで転入園した幼稚園が「日南カトリック幼稚園」。最近母から聞いたのですが、幼稚園に通い始めると、「お母さん、今度の幼稚園はね、お弁当を食べる時にみんなでお祈りをして食べるんだよ。」ととても嬉しそうに話していたとか。またある日の事、友だちに「きれいなところがあるんだよ。」と連れて行かれたのは、聖堂の入り口。そっとドアを開けた時、あっと驚くような感動を覚えたことを今でも覚えています。光に満ちた明るい神聖な雰囲気、たくさんの花が飾られ、その花の香りが聖堂一杯に満ちていて、「天国みたい」と。天国へ行った経験はないのに、なぜそう思ったのか不思議です。教会との出会い、神様との出会いはこのお御堂から始まりました。
宮崎の宣教
大浦天主堂での信徒発見の頃、現在の宮崎は長崎司教区になっており、聖書のラゲ訳で有名なラゲ神父様をはじめとするパリ外国宣教会の神父様方が宣教活動をなさっていたようです。宮崎県では宮崎教会が一番古く、1914年に最初の聖堂が落成しています。1927年にはパリ外国宣教会に代わってサレジオ会が後を引き継ぎ、チマッチ神父様を団長に、九名のサレジオ会員が宣教活動を開始。終戦後、1951年から正式にサレジオ会は大分地区を、聖ザべリオ宣教会は宮崎地区を担当。1958年には鹿児島教区の姶良、大隅、種子島、屋久島の司牧、宣教にもあたることになったということです。
受洗の恵み
日南カトリック教会の初代主任司祭であり、幼稚園の園長であったディ・ナポリ神父様は聖ザべリオ宣教会の一員として、若くしてイタリアより日本へ宣教に来られたということは聞いており、子どもの頃、当時の写真も見せていただいた記憶があります。幼稚園の創立が1956年になっているので、その前に教会が建てられたものと思われます。幼稚園卒園後、教会に行き始めたのですが、当時はラテン語のミサで信者が唱える祈りは文語体で、何が何だかわからないミサではありましたが、行くと、何故か「嬉しい」ただそれだけのために、雨が降ろうとお客さんが来ようと、日曜日のミサに一人で黙々と通っていた7歳の私でした。「この子は何を思って一人で教会にくるんだろう?」と代母になってくださった方(姉妹園の飫肥カトリック幼稚園の主任の先生)は思っていたそうです。実はこの先生は長崎の純心短大保育科の卒業生で、学生の時に浦上教会で、浜口庄八神父様より洗礼を受けたということでした。更に、私が終生誓願を立てる前頃に「私はシスターになりたかったのよ。」ということを聞き、神様の摂理を感じないではいられませんでした。私と純心の架け橋になってくださったように思います。教会へ行くようになって、十字架を切ることを覚えましたが、ある日、母に尋ねたそうです。『「ちちとこと せいれ
いのみなみ(・・・)によって」ってどういうこと?』と。何も知らない母は神父様に電話をかけて尋ねたそうですが、さすが宣教師、「お母さん、一緒にお勉強しましょう。」ということになり、母子別々で洗礼の準備が始まり、その年の12月に母と妹と私が受洗の恵みをいただきました。その日には一緒に十数名の受洗者があり、神父様にとっても大きな喜びの日であったようでした。小さな教会ではありましたが、とても家庭的で神父様は子どもたちをとてもよく可愛がってくださいました。そこには神父様の賄いをしていた岡本さんという方がおられましたが、神父様が呼ばれると、どこからでもすぐに駆け付ける方で、私はその方から「仕える姿」を見せて頂いていたように思います。
日南教会の今
現在信者の数はかなり減ったようですが、数か月前にカトリック新聞にこの教会の記事を見つけました。姉妹園との合併で使わなくなった園舎を利用して、「子供食堂」を始めたというものでした。教会だけの力ではできないので、地域の方々と一緒になっての取り組みのようでしたが、開かれた教会の姿として嬉しく思いました。
父が亡くなる一年前、ふっと思い立って両親とともに日南教会を訪問する機会を得ました。町全体が寂れてしまい、寂しく感じましたが、私たち家族にとっては大切な信仰のふるさとです。教会を通してこれからも土地の人々に神様の愛が伝わっていきますようにと、ディ・ナポリ神父様の墓前で取り次ぎを願って祈って参りました。
熊本(手取教会)
熊本市の中心街地、デパートやホテルなど高層ビルに囲まれた中に緑あふれる都会のオアシス、手取教会があります。聖堂内に一歩踏み入れば、そこには外の騒々しさとは別世界の荘厳な雰囲気に包まれた祈りの場があります。
日本の福音宣教は幕末・明治初期に再会されましたが、熊本では、1889年3月(明治22)に、パリ外国宣教会のジャン・マリー・コール神父が熊本を訪問することによって本格的な福音宣教が開始されました。その当時、教区制度はまだ確立されておらず、九州・沖縄は日本南緯使徒座代理区として統治されていました。5年後1894年7月(明治27)、現在の手取教会敷地に熊本県全体の拠点として新しい教会堂が献堂され、現在では熊本県全体で14小教区と3巡回教会を構成するようになりました。
明治・大正時代の祈りの場であった木造の教会も老朽化と信徒数の増加に伴い1927年(昭和2)に新聖堂建築に着手。設計施工にあたったのは、カトリック教会聖堂建築の第一人者であった鉄川与助氏で、翌年5月に完成し、「日本の聖母」にささげられた教会として献堂されました。1950年(昭和25)に熊本の司牧はパリ外国宣教会から聖コロンバン会へ、2005年(平成17)に福岡教区へ引き継がれ現在に至っています。
100年を超える時の流れの中で、社会事情も時代も大きく変化しました。
教会も大きく成長発展しました。しかし、その信徒数の人口比は1パーセントに満ちません。数多くの人々がまだ福音の喜びに出会うことも、主の食卓に与ることもできず、そのチャンスを待ち続けています。現代の教会にも初代のコール神父のような情熱と使命感に溢れた人の出現を待ち焦がれています。その急務に気づき、応えていく人が数多く出現することが、創立125周年の一番適切なお祝いであると思います。この期待に一人でも多くの人が応じることを祈念します。…」
カトリック手取教会創立125周年に寄せていただいた前述の宮原司教様の言葉を心に刻みながら、さらなる先の教会創立150周年に向かって歩み出した手取教会です。
激動する社会情勢の中で、いつも変わらない「道」「真理」「いのち」である主イエス・キリストの照らしと導きと支えのもと、「神の国」の到来のために役割と使命を果たす事ができますように。祈りながら、純粋の手取っ子とは言えずおこがましくも熊本・手取教会の紹介をさせていただきました。
(参考資料)
・福岡教区HP
・カトリック手取教会125周年記念誌
佐賀(唐津)
「なぜ近所にキリスト教の家が一軒もないのだろうか?いや、近くに親戚が一人もいないのも不思議だ」という素朴な疑問を持ったのは小学校の高学年の頃だった。中学から志願院でお世話になり、自己紹介をすれば、「出身は五島でしょう」という声が返って来た。高校時代、運動場の草取りが始まると、どこからともなく「宇田は居るか?佐賀人の通った後には草も生えんそうだ」という声が聞こえた。そして修練院時代、26聖人の殉教劇をする時は決まって、あの寺沢半三郎の役だった。
「土地の召命」の原稿を依頼されて、おおよそ召命の温床とはなりそうにもないことばかりが脳裏をかすめた。
唐津の教会は、1902(明治35)年に城内二の門に創立され、現在の山下町に移転するまでには、西の門小路や裏坊主町を転々としている。2002年5月に100周年を祝った。信徒数約400名(170世帯)の教会である。
創立のころから、佐賀や馬渡島、呼子教会の巡回教会であり、1927(昭和2)年福岡教区が設立されたのを機に、パリミッションやミラノ宣教会の神父様方によって司牧された。母は長年「日本人の神父様の説教が聞きたかね」と言っていたが、2015年4月から福岡教区の中村信哉神父が着任し、満足していることだろう。
1936(昭和11)年から約10年、母方の祖父母は、子ども7人を連れて五島から佐賀に出て樟脳の製造をしている(母は長女で当時12歳、大窄操は8番目で、佐賀で生まれた)。
1947年父と結婚した母は、そのまま佐賀に残って樟脳製造の仕事を引き継ぎ、理容師の資格を持っていた父の開業のために準備をしたようである。
生まれも育ちも佐賀である私の中に、五島の風が強く吹いているのは事実である。大窄操の「土地の召命」の記事を読んで、私と同じような体験をしていることを初めて知った。その体験とは、幼い頃の五島(楠原)での生活である。
私は4歳の時、楠原の祖父母に預けられ、ひかり保育園(現お告げのマリア修道会)に通った。親としては、近くに保育園がなかったので初聖体の準備も兼ねていたようであるが、肝心なことは何も覚えていない。ただみんなの後をついて朝晩教会へ行って祈ったこと、叔父や叔母たちから何か言われては、「佐賀に帰る」と言って、荷物をトランクに詰める自分の姿だけが記憶にある。しかし私にとって五島は、とても懐かしく親しみを感じる、叔父や叔母たちを兄や姉として慕い、可愛が ってもらった、他の兄弟が味わえなかった大きな恵みの場所であり、私の召命の力強い支えである。しかし小学生 の頃、夏休み特に8月15日を前に、兄弟そろって多くの子どもたちと教会に宿泊して教理を学び、イタリア人の神父様たちから、初聖体の準備をしてもらった体験も貴重な思い出である。今教会の墓地には、ミラノ宣教会の二人の司祭(彼らは同級生で一緒に来日した)が眠っている。まさに戦後の日本における再宣教の恩恵を受けて、多くの宣教師たちに育てていただいた教会でもある。
つい先日帰省した時、末の弟夫婦が来て話が弾んだ。弟が「俺はおふくろを悲しませんごと、教会に行きよっとばい!」と言うのを聞いて、昔とあまり変わっていないと感じながらも納得した。「長女で手伝いがいっぱいで、童貞さまになりたかと言えんじゃった」という母の思いを知る私も、時々「母を悲しませてはならない」と奮起する時がある。
親(先祖たち)は、一番良いものを子に与える。その良いものを、親を悲しませないために大事に守るのも子どもの道であり、唐津教会の一信徒の本音でもある・・・。
島根・松江教会
松江教会は山陰でいちばん古い教会で、1890年、神戸の下山手教会主任ペラン師が派遣した伝道婦によって宣教の種が蒔かれた。1897年、パリ外国宣教会のアングレル師が初代主任司祭として来松。市内雑賀町の三島金之助宅を講義所として、出雲・石見・隠岐もあわせ宣教に従事した。1898年1月、松江教会初の信者となった阿郷トク(70歳)が受洗した。この年、講義所は市内内中原に移転。さらに1907年に現在の母衣(ほろ)町に移転し、司祭館とコック住宅2棟が建てられた。1917年、信徒の弓削田(ゆげた)千吉氏が、伝道士の住居を兼ねた伝道場を自費で新設、一室を仮聖堂に充てて教会の面目を一新した。
1922年、司牧はパリ外国宣教会からイエズス会に移管。信徒数は百名を超えた。1928年に松江教会初の司祭都田耕造師が誕生。太平洋戦争中も松江教会からは、1942年に佐々木鉄治氏が司祭に、43年に小出哲夫氏が叙階された。佐々木師は戦後に米政府から派遣されたフラナガン師に貧孤児救済施設を勧められ、神戸の少年の町設立に尽力、小出哲夫師は中江藤樹研究者でもある。以降、司祭・修道者が多く召し出しを受けている地域でもある。
1963年、18メートルの鐘楼をを持つ、鉄筋コンクリート造りの現在の教会が献堂された。これには、マドリッドのドロレスとマリア・アルカルテ姉妹の援助があった。妹ドロレスは幼少より病身で、闘病生活十余年中の著書、絵画等は日本のカトリック教会にと委託して帰天。26年間萩教会司牧に従事したピエラ師がスペインに帰国した際、老朽化した松江教会の聖堂新築の話を知らされた姉マリアは、妹が遺した絵画・調度品等を売却して、当時の日本円で2千5百万円を松江教会に寄付した。
1974年、司牧は広島司教区へ移管。現在は、永井隆博士の顕彰や定期的な英語ミサ等も行なわれている。
私は4人姉弟の長子で、小学2年の1936年に両親とすぐ下の弟と4人で洗礼を受け、その下の弟たちは幼児洗礼を受けた。当時、松江教会に竹内という伝導士さんがいて、娘4人全員が修道院へ、ひとりが愛子会、3人がトラピスチヌへ入会された。召命に影響したことでまず思い出すのは、一番下の娘さんが修道院へ入るとき、JR駅へ見送りに行って私もあとから行くと思ったことと、竹内さんがトラピスチヌに面会に行ったときの話である。親が北海道まではるばる面会に来ているのに、時間になると娘はあっさりと修道院に戻ると言ったのを聞いて、修道院はいいところらしいという感じを受けた。また、同郷の新谷さん(Sr新谷愛子の母)の姉(Sr江角)が長崎に学校を創ってていると聞き、行きたいとの思いを募らせていた。女学校に上がるとき志願者として入ったが、1年後に父が結核になって辞めざるをえなくなった。さらに父が1943年に亡くなり、母と弟3人を養うために20代の終わりまで県庁勤めをした。当時、母は神父様の賄いで、私たち家族は教会の敷地内に住み毎日ミサに与っていたが、新谷愛子さんと安達音子さん(Sr安達)が夏休みに帰郷するのを遠くから眺めていた。1958年、やっと修道院に入ることができた。これも、かつて体験した1年弱の志願者生活が心に深く残っていたからだと思う。
戦後、Sr江角が東京の帰りにSr松下ミヤを伴い、松江に来て教会に一泊されたとき、3人の弟に「神父様になりたい人はいないの?」と声をかけられた。真ん中の弟が「ぼくがなろうか?」と言って神学校に入り、イエズス会の司祭になった。弟の後、メスネル師が主任の時代に、松江出身者が4人叙階されたことがあり、宣教師の影響は大きかったと思う。
(引用:松江カトリック教会ホームページ、『松江カトリック教会百年史』)
彦島教会(下関)
―下関・彦島を中心に―
私の家族は父の勤務の関係でいわゆる転勤族、幼少期よりあちこちに移り住み、残念ながら私には故郷と呼べるところが無いように思う。しかし神様はその地、その所で私の召命の恵みを徐々に膨らませてくださり、ついに不束な私を純心聖母会の会員として呼ばれ、育ててくださり、今日に至っている。このようなことから、いただいたテーマ「下関・彦島」を少し広げ、以下のように拙文を書かせていただいた。
彦島教会
下関の西に位置する彦島は、農業と漁業の島であったが、造船や化学工業の工場が進出し、長崎などから信者が移住し、長崎の信徒が多い教会である。信徒は渡船を利用して丸山町の教会に通っていたが、不便なため、1930(昭和5)年、彦島江の浦町の信徒宅の2階を借り、日曜日には丸山町から司祭が来られ、ミサが捧げられていたが、手狭となり、2年後に江の浦町の信徒宅に移転した。
彦島教会としての建築は、荻原昇師が広島教区長ロス司教様にお願いし、1935(昭和10)年12月、600坪の土地を購入していただき、建築資金は荻原師や彦島教会の信徒で準備し、1937年に建立。木造建築で、外観は赤い屋根に白い十字架の美しいものであった。聖堂内は、一段高いところに祭壇が設けられ、祭壇に近いところに20畳の畳の間が、その後ろは約23坪ほどの板敷になっていた。教会の歴史はここに始まる。
その当時は、丸山町の教会には荻原師、ドメンザイン師、ゴンザレス師の3名のイエズス会士がおられた(創立50周年誌より)。そのころ、私はこの地で生まれ、当教会で洗礼の恵みをいただいた。前述の聖堂の広間の板敷で子どもたちは駆け回っていた姿をかすかに覚えている。1939(昭和14)年11月に荻原師より広島教区司祭の浦壁政太郎師に替わった。戦争が始まると憲兵隊の監視が厳しくなり、司祭もご苦労が多かったようである。1942(昭和17)年より教会の名称も日本天主公教会彦島教会と改名。浦壁師は1944年に軍隊に招集され、翌年6月、終戦2か月前にフィリピンで戦死された。私は浦壁師に初聖体の秘跡を授けていただいたが、その時にいただいたサイン入りの額入りのご絵を最近まで大切に持っていた。
教会は1975年に建て替えられたが、司祭は居住していない。私は1944年3月末、小学1年を終えたところで父の転勤で広島県尾道教会に転出した。
尾道教会
尾道教会は、1940年、JR尾道駅裏の民家から発足した。2階建てで、1階に聖堂があり、奥の6畳ぐらいの畳の間に祭壇が置かれ、続く8畳の間が信徒の間、周囲のお縁の一角にオルガンが置かれていた。主任司祭はイエズス会のクルンバッパ師で、時々鴨居に頭をぶっつけられ、お気の毒であった。私どもがお世話になったのは、終戦前後の2年間、戦時下は町中で外国人司祭とお話しをしていると、市民から注意されたこともあった。
敗戦の年の9月23日、父が病いで急逝。社会もわが家も大変動であった。この時、窮地のわが家のことを南方から復員されたばかりの荻原師がお知りになり、尾道までお越しくださり私ども母子を励ましてくださったことは、とりわけ母にとってかけがえのないことであったと思われる。お土産に貴重な白米を軍隊の靴下2、3足に一杯詰めて持ってきてくださり、小さな私をしっかり抱きしめてくださった。その後も、何かと心を掛けていただいた。その後、母の郷里に近い佐世保に移ることになった。
三浦町教会
佐世保では、三浦町教会にお世話になった。終戦直後のことで、教会にはたくさんの進駐軍の外国人が日曜のミサに与るために来ておられ、子どもたちにはお菓子などをくださっていた。私はここではじめて「童貞様」と呼ばれる方にお目にかかった。三浦町教会には3人の童貞様と2人のポストラントがおられ、みなさんモンペにスモッグ、素足に下駄履きだったが、高い美しい声のラテン語で教会の祈りを唱えておられた。教会は畳で、跪いたポストラントの素足のピンクのくるぶしがとても印象的であった。貧しい時代であったが、シスター方は明るく楽しげで、とても優しく魅力的に思えた。どこかに転勤されると伺うと、寂しく悲しく、小さなプレゼントを市場に買いにいったことを思い出す。教会学校などで教えていただくことはなかったが、出会いを通して私の召命の恵みをいただいたと深く感謝している。小学6年生の終わりごろ、江角ヤス会長様よりお声をかけていただき、長崎の純心中学校に入学させていただくことになり、今日に至っている。
この詩編のみことばを繰り返し、心から神さまに賛美と感謝を捧げつつ、ともにいてくださる聖主にすべてをお委ねして、神様と人々に喜んでいただけるような八十路の歩を感謝の内に進めて参りたいと念じている。
世界平和記念聖堂(広島市)
広島は、1945年8月6日に投下された原子爆弾によって焦土と化し、爆心地から僅か1.2㎞の距離であった幟町天主公教会も、爆風で倒壊の後類焼しました。被爆した主任司祭フーゴ・ラサ―ル神父(ドイツ人、1948年に帰化し愛宮真備と改名)は、1946年9月にイエズス会の総会のために訪れたローマで、教皇ピオ十二世に広島の惨状を報告、聖堂建設構想に対する特別の祝福を受け、各国に支援を求めました。
1950年8月6日に定礎式が行われ、1954年8月6日に竣工、献堂された広島司教区の司教座聖堂は、終戦記念日である8月15日を祝日とする「被昇天の聖母」を保護者と仰いでいます。聖堂(村野藤吾設計)は、屋根23m、ドーム28m、鐘塔45m(十字架を含めると56?4m)、地上3階、地下1階の三廊式バシリカ形式で、2006年7月5日に広島平和記念資料館(丹下健三設計)と共に国指定重要文化財に指定されました。外壁は、被爆した広島の川砂を使って現場で作られた20数万個の灰色のコンクリートレンガを積んで作られ、内陣ドームの上には、地球儀の上に乗った鳳凰(フェニックス)が復活の象徴として置かれています。この鳳凰は、死と灰の中から復活した広島を表すものでもあります。世界平和記念聖堂は、世界中から贈られた献金と寄贈品によってできましたが、献堂当初はステンドグラスの代わりに板ガラスが嵌められているような状況で、最後の高窓のステンドグラスが届いたのは、1962年でした。
1962年には、ドイツ連邦のアデナウアー首相から贈られた大聖堂正面のモザイク壁画「再臨のキリスト」(高さ13m)も完成しました。毎日曜日、少しずつ出来上がっていく様子を見ていましたが、完成した時の感動は忘れることができません。聖櫃はボン市、聖体拝領台はバイエルン州、洗礼盤はアーヘン市、パイプオルガンはケルン市等、多くはドイツから贈られました。鐘楼の「平和の鐘」もドイツで製作されました。第一の鐘が変ニ音、第二の鐘が変ヘ音、第三の鐘が変ト音、第四の鐘がロ音で、大祝日のミサ前に鳴る特別の旋律を聴くと、その荘厳さに涙が出たものです。寄贈品には銘文が刻まれていますが、ベルギーから贈られた本祭壇には、「平和は犠牲の代償なり 広島市へ ベルギーより」とあります。これまでにも、聖堂の維持保全のために補修工事が行なわれて来ましたが、2016年6月から2019年3月までの予定で進行している耐震補強・保存修理工事は非常に大掛かりなもので、現在、聖堂、鐘塔は全面を覆われ、その全容を見ることができません。内部も、バラ窓も含めた全てのステンドグラスが外され修理されます。
私は、幼稚園は聖堂横の聖母幼稚園、大学は教会に隣接するエリザベト音楽大学に通いました。大祝日のミサは、音楽大学の学生やオーケストラによる荘厳ミサで、子どもの頃はミサが永遠に終わらないように感じられました。大学時代は、クリスマスには全学生が真夜中に始まるミサでグレゴリオ聖歌を歌い、その後は大学の教室に泊まっていたことが思い出されます。また、パイプオルガンを専攻したので、子ども時代に聴いていた大聖堂のパイプオルガンで練習することは、不思議な感覚でした。
1981年2月25日には、教皇聖ヨハネ・パウロ二世が聖堂を訪問されましたが、この時、鯉が泳いでいた聖堂正面玄関を囲む池から、警備上の理由で水が抜かれ、今もそのままになっているのがとても残念です。被爆二世である私が入会することになった修道会の本部が、同じく被爆地である長崎にあったことは、神の計らいだったのでしょう。会の使命である教育の場に派遣され、純心女子短期大学、長崎純心大学短期大学部、長崎純心大学と発展していく中で、いつの間にか25年が経ちました。鐘塔2層部分には、正面西側には日本語で、東側にはラテン語で彫り込まれた碑版が埋め込まれています。この「聖堂記」は、ラサール神父の意図、聖堂の役割が凝縮されたものです。
長崎の地にあって、学生たちの内面に「真実、正義、平和の礎となる慈愛」を求める心を育てることができるよう、より一層励んでいきたいと思います。
岡山教会
位置と歴史
岡山は、中国地方の一番東にあり、南は瀬戸内海、西は広島、北は鳥取に隣接しています。歴史的、文化的、産業的には、どちらかと言うと、神戸、大阪、次に瀬戸内海、そして西の広島県の特に福山、尾道などとの関係が深かった所です。地形的には、山間部より平野部が多く、気候も温暖で、米・麦作りを始め、イグサの栽培、果物(特に葡萄と桃)の栽培、繊維工業も盛んで、山陽地方の主要な生産地帯です。
また岡山は城下町で、市の東部には後楽園があり、貞享元禄年間、藩主池田綱正(33万石)の創設によるもので、市の中心部を流れる旭川を隔てて、岡山城址と対しています。後楽園は、金沢の兼六園、水戸の偕楽園とともに、日本三大名園の一つです。
岡山教会の歴史
1869年(明治2)浦上信徒、備前岡山藩に117名配流
1873年(明治6)帰郷
1880年(明治13)2月 下田町にカトリックミッションの看板を掲げる
7月 岡山で初めての洗礼5名
10月 弓之町石丸邸(現教会地)に移転、「天主公教会」看板を掲げる
1887年(明治20)最初の小神学生(浦上豊)長崎小神学校入学
1899年(明治32)岡山天主堂献堂
1923年(大正12)5月 広島教区設立。デーリング大司教、岡山教区長館に入る
1928年(昭和3)8月5日 早坂司教によりロス司教祝聖
1939年(昭和14)ロス司教、広島へ(司教座広島へ)
1941年(昭和16)公教神学女子専修学院創設(伝道婦養成)
1945年(昭和20)戦災により、教会消失
1951年(昭和26)イエズス会と淳心会交代
クルスベルグ大司教により、新聖堂献堂式
1968年(昭和43)信徒数2千人突破
1980年(昭和50)10月17日 岡山教会100周年記念式典、ヤコボ喜斉聖骨奉迎・像除幕
2001年(平成13)現在の岡山教会献堂
2017年(平成29)現在、県内の教会8、信徒数2400
岡山教会の召命
岡山教会からも、多くの司祭や修道者が生まれました。信徒たちがヤコブ喜斉の殉教の精神に倣い、神父様方のご指導の下、信仰の高揚と福音宣教、使徒職の充実を計ったこと、創立の当初から今日に至るまで、召命について意を用いてきたことなどが挙げられます。日曜学校、ミサ答え、夏季学校、錬成会、黙想会もしばしば行われて、内省の機会も多く、霊性に目覚めていったこと、女子聖母会等の宣教・奉仕活動も、盛んに行われました。さらに域内の修道会、聖心の布教姉妹会やナミュール・ノートルダム修道女会が福祉事業や教育事業を通して、キリストの証し人となり、神の国の発展に尽くされたことがその実りだと思います。
昭和58年の統計では、1905年(明治38)、最初の司祭叙階者(浦上豊師)があり、1982年(昭和57)に原田豊巳神父の叙階で、出身司祭は13名を数え、修道士・修道女は生存者だけでも70名を超えています。ちなみに、私が純心に参りました時、私と年齢的にごく近い人たち、7人中6人は修道会にはいりました。
私の教会との関わりと召命
私は岡山で生まれ、3日後に岡山教会で洗礼を受けました。小学校3年生から岡山ノートルダム修道女会の学園内に住んで、そこから23歳の時、純心聖母会に入会させていただきました。両親が長崎出身の信者で、親戚の中にも聖職者が結構いましたので、小さい時から「男の子は神父様に、女の子はシスターになるといいね」と両親から言われて育ちました。そして中学生のころから、私もシスターになりたいと思うようになり、中3のとき、高校生以上と言われた教会の黙想会に与ったり、毎朝のミサと毎週の日曜学校にも参加していました。そして、高2の時の学校での黙想会(イエズス会司祭の指導)で、修道女になろうと決心致しました。高校卒業までは、家庭にいるようにとの両親の勧めで、長男の弟の大学卒業を待ちました。
私の身近なシスターたちは、みな立派で規則は率先して守られていましたので、私になれるのだろうかと考えたりしました。
私の修道会選びは、奉献生活をしようというのに、毎日のように家族に会うような会ではまずいのではないかと考え、伯母のいる純心聖母会にお願いすることに致しました。
最後に、いただいた奉献生活の中で、私のようなものが教会のために祈り、働かせていただいていることをどんなに感謝しているでしょうか。これからの日々も、恵みに応え、教会のため、日本の人々の救霊、幸せのために祈り、励みたいと思います。
広島(三原)
広島(三原)
広島教区は、管轄5県の中に6か所の巡回教会を含めて48か所の教会が所在している。
その中の広島県三原市にある「カトリック三原教会」について記したいと思う。献堂当初のこと等、当時の信徒が書かれた文献を参考にさせていただいたが、自身の出身教会でありながら、知らないことがたくさんあったことに驚き、多くの恵みのうちに現在の教会があることに感謝した。
三原教会の歩み
昭和24年の暮れ、一人の信徒の家の一室に祭壇が設けられ、初めてのミサがあげられた。翌年2月、この信徒の貸家の2階に祭壇を移し、門柱に「三原カトリック教会」の表札が掲げられた。その時、信徒は大人7名、子ども7名であった。福山教会の神父様が、片道30キロの道のりをオートバイで通っておられたようだ。その後、信徒の教会建設への希望は保育所開設という形で現れることになった。この保育所は戦後の混乱期の、特に専業漁師の子女教育のために役立った。この保育所の一室に移された祭壇は、昭和26年11月の王たるキリストの祝日に献堂を見るに至った三原教会の土台となった。
三原は昔から酒所であり、献堂された教会は酒倉を借用した建物だったところから、「酒倉教会」と呼ばれるようになった。初代主任司祭ド・ラ・ペリエール神父様(イエズス会)をいただき、改造工事などを経て、フランスの新聞社による募金で寄贈された鐘、「パスカル」が掲げられ、「酒倉教会」は三原のなじみの風景になった。その間、昭和30年から約3年間は純心聖母会も三原に修道院を開設し、保育所と教会のために多くの奉仕をされたと聞いている。
その後、「自分たちの聖堂」建設の意欲は二代目主任司祭のヤコブ・コップ神父様の時に実現した。昭和39年12月、ドイツのケルン大司教区の協力を受けて現在地に新聖堂が献堂された。やがて、司牧はイエズス会から教区司祭の手に委ねられるようになり、教会共同体は地道な発展を遂げてきた。
「聖トマス小崎の碑」建設に向けて
豊臣秀吉の命で長崎に護送された26聖人が三原を通ったのは1597年の冬。彼らは小早川氏の居城である三原城内の牢で一夜を明かした。少年トマス小崎が、故郷、伊勢の母に手紙をしたためたことで知られている。現在、三原城後の石垣の前に26聖人の一人、「トマス小崎」の碑が建っている。
この碑の建設に関しての事の発端は、1988年に「長崎の道」巡礼団が三原教会に立ち寄り、宿泊したことによる。「長崎の道」巡礼団の代表・本田周司氏の26聖人への崇敬の念は、三原教会の信徒の心を動かした。トマス小崎の書いた手紙の最後に「安芸の国、三原にて」という一文が残されている。もし、トマス小崎が三原で手紙を書かなかったら、26聖人がここを通ったことも、山陽道を通った足跡さえも残らなかったであろう。その思いを胸に、有志の信徒たちにより「聖トマス小崎殉教記念建設委員会」がつくられ、多方面からの協力のもと、1993年1月に、トマス小崎の碑が建てられた。私も、子ども時代に教会に行く日は、ミサに行く前にこの碑の前に必ず行き、家族で祈りをしていたことを思い出した。碑が建てられた由来を知り、感慨深いものがある。
どの教会でもそうであるが、司祭と協働する信徒の熱い思いは教会を育てることに繋がるということを、今回改めて感じた。広島という地には、きっとまだ知らない信仰の歴史がたくさん刻まれていると思う。一つひとつに込められた歴史を知り、これからの教会発展のために自分に何ができるのか、神様との関係、人と人との関わりを大事にしつつ、まずは祈りと奉仕を精一杯できるように努めることから始めたい。
和歌山(古屋)
和歌山県は日本最大の半島である紀伊半島の西部に位置し、江戸時代は紀州徳川家の領地(紀州藩)であった。浦上四番崩れでは300人の浦上キリシタンが和歌山へ配流され、1873年(明治6年)禁教令が廃止されるまで過酷な弾圧をうけた。和歌山の地で96名が死亡し、言い知れぬ苦難を味わい信仰を証しした。
大阪教区(和歌山県、大阪府、兵庫県)には敗戦後、13か14の教会しかなかったようだが、現在は77の小教区がある。和歌山県には11の小教区があり、主に聖コロンバン会の神父様方が司牧と宣教にあたっている。紀州の秘境といわれた龍神村で1948年、住民側の要請によって教会が設立され、それに続く集団洗礼は当時カトリック教会の話題となった。村自体の過疎化と同時に信徒数は減少しているが、私が子どもの頃、その龍神教会で毎年サマーキャンプが行われていた。和歌山の教会の子どもたちが龍神教会の敷地内にある「友の家」で合宿をして、青年たちがリーダーを行い、神学生も来てとてもにぎやかだった。私の父はスタッフとしていつも参加していた。皆でミサに参加し、教会の前を流れる川で泳ぎ、バーベキューやスイカ割り、キャンプファイヤーをした思い出がある。大自然の恵みの中で、同じ信仰を持つ仲間と出会い、楽しい時を積み重ねていくうちに、自分は教会の子どもだと深く実感していった。
私の家族が所属していた古屋教会では1992~2003年まで聖コロンバン会のイートン神父様が主任司祭だった。神父様は1950年に来日され、帰国されるまでの最後の10年間を古屋教会で働かれた。私が小学5年生の時、神父様の姪のカトリーヌさんが、婚約者と2人で神父様に結婚式を挙げてもらうためアイルランドから来日した。信徒がみんな参加するミサの中で結婚式が行われ、披露宴は愛徳姉妹会の幼稚園のホールを借りて行った。カトリーヌさんにきれいな着物を着せてあげ、会場や料理、出し物などを信徒が一つになって心を込めて準備し、カトリーヌさんは本当に喜ばれた。挨拶の中でカトリーヌさんは「今まで、どうしておじさんは私たち家族を置いて日本に行ってしまうのか分からなかった。でも日本に来て、ここにおじさんを必要としている人がいるとわかった。」と話した。私が神父様の方を見ると「大成功」といってぽろぽろ涙を流していた。その時の神父様の姿を想い出すと、私は今でも涙が出る。私の祖父が入院した時、同じ病院に入院していた神父様は、寝間着のまま点滴を引っ張りながらお祈りに来てくださった。イートン神父様が古屋教会にいらっしゃった時、いつも教会が明るく活気があったように思う。
昔は子どもが多いことで有名だった古屋教会は、現在、子どもの姿はなく信者は高齢化している。司祭の数も減少し、巡回教会となった。私が純心聖母会への入会を父に話した時、父は「召命は自分だけのものじゃないからな。」といった。そして自分も司祭になりたいと思っていた時があったこと、古屋教会からはまだ、司祭、修道者が出ていないことを話した。古屋教会は長崎出身の信者が多い教会で、巡回教会になり召命の必要性を痛感していることもあり、ミサの前に召命のためのロザリオを続けている。私が古屋教会で育った召命第一号である。「召命は自分だけのものではない」このことを一生忘れずに生きたいと思う。
参考文献
三俣俊二著『和歌山・名古屋に流された浦上キリシタン』聖母の騎士社、2004年
『「旅」のー浦上四番崩れー』カトリック浦上教会、2005年
『龍神教会50年の歩み』
私が教会に行きはじめた1966~67年頃は教会の活動も活発でした。レジオマリエの活動も盛んで、北浜教会のレジオマリエも人数が増え、2つのセナートスに分けられて活動するような時代でした。私が純心に入会するころ、当時の主任司祭安田師(後の大司教)が「結婚をして信仰厚い家庭を築いてくれる人もいなくては困ります…」と嬉しい悲鳴をあげておられたことを思い出します。今は廃止になった北浜カトリック教会は北浜3丁目ビル街の三井信託銀行の6・7階にあり、特殊と言えば特殊な存在でした。家庭ごと所属する信徒は少なく、洗礼を受けても家族の反対で教会に来られない人、結婚により教会から遠ざかる人など幽霊信徒の多い教会でもありました。司祭はレジオのメンバーを連れて、教会に来ない人を訪ね、探しに行っておられました。「カトリック教会」と聞いただけでピシャッと戸を閉め、門前払いにあうことも度々という厳しい状況もありました。
北浜教会時代は私の青春と重なり、思い出の多い一時期でした。その北浜教会が廃止された経緯については、田中康夫氏(作家・元名古屋知事)のプログに次のように簡潔に書かれています。「阪神大震災の後、カトリック大阪教区が、大胆な改編をして、中山手、下山手、灘の3教会を統一、大阪の北浜教会は廃止、甲陽園西山町の大司教館8600mは売却されました。」
一方、司教座聖堂の大阪玉造カトリック教会の紹介では、「阪神震災後 西宮から大司教館がここに移り名実ともに司教座聖堂となりました」とあります。悲喜こもごもそれでよいのでしょう、主はすべてを良きに変えてくださるからです。
カトリック大阪大司教区(大阪教区)は、大阪府、兵庫県、和歌山県におけるカトリック教会の活動を管轄範囲とし、77の小教区が置かれています。それ以外に教区責任者によって認可された、さまざまな修道会(修道院)やカトリック施設・事業体などがあり、それぞれが独自の役割を担って活動しています。
1995年の阪神淡路大震災の時の体験を組み入れて(教区新生計画)を発表し、被災からの単なる復旧ではなく、社会のすみずみに福音を行き渡らせることのできる、21世紀に向けた刷新された教会づくりをめざしました。その後2002年から、教区全体に「ブロック化」がとり入れられ、また社会活動に取り組む教区の諸活動が「社会活動センター・シナピス」に結集することになり、小教区の壁をこえて社会と共に歩む教会づくりに取り組む仕組みが整えられました。以上がインターネットで観る教区の沿革です。
私個人は信徒として所属していたのは僅か1年余り、その後帰省したとしても教会の友人は僅かで修道会入りしたり、結婚して他県に移動していたりでそれ程深い関わりなしに過ごしてしまいました。信者の姉の話では、司祭の数が少なく、かつては自分の教会と意識していた教会もブロック化で主任司祭が常住するわけでもなく、教会に活気がなくなり寂しい思いをしていると聞いています。今回、長崎から前田神父が大阪大司教となって着座されましたが、何とか若者の心をつかめる教会、かつての活気を取り戻してほしいと願うばかりです。神様はいつどこでも人々の心に働きかけておられることを確信し、希望をもっています。
関東地区
東京・潮見教会
隅田川と富岡八幡宮、春には桜と運河、夏の祭りでは御神輿連にみんなで思いっきり水をかけるのが流儀だ。私のふるさと門前仲町は富岡八幡宮を中心とした神社町で今も江戸情緒漂う町だ。駅を出ると正面にまず目に入るのは、八幡宮への参道と大きな赤い鳥居、昔ながらの茶屋とせんべい屋。浴衣は似合うが修道服はなかなか馴染まぬ街並みだ。現在でも月に3回縁日が開かれ、人と物が行きかう、下町中の下町である。祭りの時期に我が家の玄関を開ければ竹笛と鼓のおはやしが聞こえてくる。
この地域は江戸時代の商業政策で整備された運河がたくさん流れており、川を一本隔てるとそれぞれ歴史や文化の違う町が現れる。門前仲町から西へ隅田川を渡れば日本橋や銀座、築地とまた違った歴史を持つ町があるし、北には相撲の町両国がある。ここから南へ川を渡ると潮見教会がある。門前仲町よりも海側はほぼ埋め立て地で、こちらも雰囲気は全然違う土地である。少し変わった地形なので時間のある時に地図帳を広げてみていただきたい。
私はここに住みつく前は神奈川の多摩地区に住んでおり、洗礼は瀬田教会、幼少期は喜多見教会に通っていた。現在修道院が上野毛に位置し、受洗した教会の近くに住んでいることは大変有難いお恵みと感じている。喜多見教会は耐震検査の結果現在は閉鎖され、成城教会に統合された。幼いころから教会が大好きで、日曜日に教会へ行くのはいつも楽しみだった。幼い私の信仰心を養ったのは、幼稚園から小学4年生まで通っていたミッションスクールのシスターによる宗教の時間であり、教会学校の時間であり、たくさんの人を通して信仰の芽を温かく育んでもらった。そして小学5年生から江東区に住み、潮見教会へ通い始めた。教会に行ったらなかなか帰ってこない子どもだったので、帰りが遅いと家に帰ってよく叱られたものだった。当時は子どもも青年も多く、ミサの後は教会の駐車場でよく遊んだ。
さて、家から電車で一駅先の潮見には潮見教会と中央協議会がある。今から20年前まではそれ以外何もなく大変静かな場所だったが、10年前くらいから高層マンションが建ち始め、ディズニーランドから3駅と近いこと、また東京オリンピック会場にも近いので、今では宿泊施設も増えてきた。それでも静かなことに変わりはないが。
この潮見教会は「蟻の町のマリア」に捧げられた教会である。蟻の町・北原怜子さんについては皆さんご存じかと思うが、怜子さんは実際にこの潮見を踏むことはなかった。しかしその前身の教会を建てた人物だ。東京も大空襲によって焼け野原となり、貧しく生きる人々が溢れていた。そこでゼノ修道士と北原さんとが出会い、バタヤ部落・蟻の会とも繋がっていった。蟻の会にははじめカトリック信者はいなかったし、キリスト教には懐疑的な人々が多く、定職をもたない人々の集まりであった。そんな中に裕福な若い女性が一人で入っていったことにも驚くが、彼女は次第に人々の心を動かし、この一団をキリストの群れに変えることになるのだ。戦後の復興のため立ち退きを余儀なくされ、現在の潮見の地に移ってきた。潮見への入植は1967年頃からで、つまりこの地は蟻の町移転と教会の建設(1960年)から始まった土地だった。何もない所だし、交通の便もそんなによくはない場所にどうして日本のカトリック教会の中心ともいえる中央協議会を建てたのだろうかと不思議に思って当然だが、この土地には初めから貧しい人、弱い立場にある人に寄り添う精神がしみ込んでいるからだろう。
潮見に蟻の町が移ってから来年で60年、今の教会献堂から35年である。家庭的な雰囲気があり、ミサの後には信徒会館の前でみんなでお茶を飲んで帰るのが潮見の伝統の一つである。ほとんど全員がそこでお茶をして交流をして帰る。外国人も多く、韓国語とタガログ語の聖書朗読があり、その国の聖歌も歌う。出稼ぎ労働者や難民として日本に来たという人も一緒にミサに参加し、お茶で乾杯。このような教会の姿は、教会というものが世界と人々に開かれ、どんな人をも受け入れる存在なのだということを幼いころから私に示してくれた。
2015年に北原怜子さんに尊者の称号が与えられてから、今また列福運動の機運が高まり、近々資料館が教会の敷地内に創設されるとも聞いた。戦後の混乱した東京に小さく咲いた希望の花のような存在を今一度思い起こしたい。教会の一角には今日も慎ましい姿の北原怜子像が立っている。
栃木・真岡教会
1955(昭和30)年11月、フランシスコ会の叙階後間もない若いアベル-ジラード師が田中祥助氏宅に下宿し、二階を仮聖堂としたのが始まりです。翌年3月、アベル師は現在地台町に家付き591坪を購入、教会として民家改造のため、敷地内に二軒あったうちの一軒を自ら取り壊し、ブルトーザーで敷地を整備し、大工仕事もして7月には教会を設立・聖別されています。
教会入口は普通の民家と同じような玄関で、中に入ると畳の部屋があり、そこが礼拝堂になっています。礼拝堂に続く部屋は板の間でミサの時は襖を開けて礼拝堂とし、ミサ後は憩いの場となり、交流の場や子ども達の遊び場にもなります。
教会として軌道に乗り始めた2年後、アベル師は長崎や北浦和に転任。しかし、1965(昭和40)年より再着任、1988(昭和63)1月の帰天まで真岡教会で宣教に全力を尽くされました。現在、教会のシンボルとして、アベル師母堂の遺志を受け遺族より聖母子像が寄贈建立され、訪れる人々の心を癒しています。
★神のみ心に導かれて
真岡市に仮聖堂が設置されて間もなく3名が受洗、続いて5名の女性が「公教要理」を学びながら「婦人部」を発足し、7月には、2名の高校生を含む七名が受洗しています。
真岡市にカトリック教会が誕生し、外国人の司祭が常住することになったことは、人々にとって大きな出来事、関心事として、話題の種となりました。特に多くの子ども達が教会に集まっていきました。当時の新聞にアベル師を「真岡の良寛さま」という大きな見出しで記事が載っていたことを思い出しています。アベル師の明るさ、真岡に溶け込み宣教する姿は、多数の人を神のもとに導いていきました。私もその一人と言えるかも知れません。
1957(昭和32)年2月のある日、私は隣家の親友から「恩師から教会に誘われたけど、一人で行くのは嫌だから一緒に行こう」と誘われ、教会に通い始めましたが次第に私が誘い役となり、親友は教会に姿を見せなくなりました。一人残された私は、幸い40名位の信徒の中で同年齢の友人が二名でき、毎週ミサ後に30分「公教要理」を学ぶことになりました。学ぶといっても十数名の仲間と一緒に「…とは何でありますか」との問いに「…とは…であります」と読み上げていくだけで全部読み終わらないうちに要理仲間と一緒に5月26日に洗礼を受けました。私は驚きましたが、夢の中で「セイレイを受けよ」との声を聞き、何もわからないながら受洗の決心をしました。更に、2週間後の6月9日には堅信式を迎えたのです。
その後、私は8月に上京することになり、そこで多くの修道会の存在を知り、修道院巡りを楽しんで(?)おりました。ある日、真岡教会の友人を通して純心聖母会を知り訪問、会長シスター江角ヤスに逢い、そこで昼食をご馳走になりました。あの時のグリンピースごはん、忘れられません。そして数日後、会長江角ヤスから入会の招きを受け、3月25日、何のためらいもなく夜行列車で24時間かけて終着駅の長崎に到着…、現在に至っています。
真岡教会はアベル師帰天後、工業団地の造成が続き、ブラジル、ペルー、ボリビア、フィリピン、韓国の信徒が多くなりました。
今、ベージュのさわやかな色合いの真岡教会は、緑の植え込みに映えて、明るくなり、教会学校が活発化し、ファミリーキャンプ、クリスマス装飾作り、菜園活動など自然体で多国籍の方々と楽しんでいる様子が窺がえます。
そしてこれからも、フランシスコ会司祭の導きの下、異なった文化、言語、習慣をもつ人達と共に、それぞれの違いを乗り越えて理想の多文化教会、教会学校の子ども達が醸し出す家庭的な喜びを生きる信仰共同体のカトリック真岡教会として、着実に発展していくと信じ祈っています。
栃木・足利教会
足利教会の設立とその後・・・1883年ビーグルス神父と助祭のカジャック神父が足利市通5丁目『丸山綿屋』2階に仮教会を設立。今年創立136年になります。1964年新聖堂建設の少し前から教会に通うようになりました。その頃主任神父様はフランシスコ会のロア神父様でした。最近の足利教会は、2017年からさいたま教区栃木県南ブロックで、足利と佐野教会の担当司祭トマゼリ・ペドロ神父(ミラノ外国宣教会)日曜日のミサは、国際色豊かで週によって、日本語、英語、スペイン語、ベトナム語等で行なわれているようです。
聖書講座への誘い・・・高校を卒業してしばらくたった頃、クリスチャンのお友達から教会の聖書勉強会に誘われた友人に私も誘われました。日曜日の夕方7時の会から参加。話の内容は何も覚えておりませんが、その時初めて静寂の中に身を置くことを体験しました。静まりかえった教会。ついでに誘われた私が素晴らしい沈黙を体験し、今でもその時の感動を忘れることができないことを想うと、主の不思議なお招きを感じます。
聖歌練習に参加・・・その当時50人以上の老若男女が教会で聖歌練習に集まっていました。モーツアルトの戴冠ミサ曲全曲をラテン語で練習することになりました。私はなんとかついて行くことができ、そのうち練習が進んでソロの部分を担当する人が選出され、オルガン伴奏もイグナチオ教会でオルガニストをしていた方が現われました。
ある日、名古屋の放送局にお勤めの指揮者の指導をいただきました。その方がちょっと指揮してくださった途端に聖歌隊が様変わりしたことが思い出されます。日曜日の練習が長引くと、神父様は車で一人ひとりその人の家の前まで送ってくださいました。またあるときは、隣町の神父様をご招待なさり練習風景をご覧に入れて、私たちも誇らしい心になりました。
日常の司祭館訪問・・・教会へ通い始めた私は、ごミサ前、誰もいない信者席の間を行ったり来たりして祈っておられる主任司祭の姿の中に、母なる教会の心を感じていました。時間を空けて待っていてくださる司祭の存在に感謝して神の愛を感じる体験でした。神父様が、まだ神への憧れに気づいていない人々に慈しみ深い愛を捧げてくださったことを思い、感謝に堪えません。
教会の図書室・・・いつでも利用してよいとのことでしたので図書室を度々訪れました。ある日「小さき花の聖女テレジアの自叙伝」が目にとまり、お借りして読みました。それを読んでゆくうちにテレジア様のイエズス様へのすさまじいほどの愛を受け取りました。私の召命の原点だと思います。心の深いところにある自分の望みに気づきました。
現代の福音宣教・・・フランシスコ教皇様は文化・人種・言語の違いを乗り越えて互いを受け入れ、違いを理解し、多様性の中で互いを尊重することの大切さを述べておられます。私は、若いときに出会った足利教会と土地と人々においてそのことを体験しました。すべての人々を愛することによって神の愛をあかしし、父なる神に感謝と賛美を捧げることが『深い祈りで宣教を』につながることと思います。
『足利教会のホームページ』
『カトリック足利教会宣教107年の歩み』
『足利市のホームページ』
栃木・小山教会
教会の歴史
キリシタン時代、隣の古河藩での北関東の迫害で、処刑を逃れた信者が(現)藤岡町に移住させられ、新田を開いた。時が流れ信仰が自由となり、歩く宣教師カジャック師が藤岡町部屋部落の布教所で古い信者と関わった。1939年浦和教区が創立され、栃木・群馬・茨城・埼玉4県を管轄する。大戦中、敵国の宣教師たちは追放されたが、戦後、多くの宣教師たちによって北関東の宣教が再開された。1950年代には教会が各地に誕生、小山教会は54年に創設、料亭を改造した日本家屋だった。フラシシスコ会カナダ管区のタルチウス・ロア師が着任。「小教区に対する教会の期待は大きい。神との一致を深め、すべての人々の救いのために働く大切な所である」との考えのもと、キリスト教信仰を地域社会に浸透させるために心を砕いた。次のカシアン・マルシル師は、「司祭の数は少数となり、教会財政の半分は外国に依存しているが、やがてまったく入らなくなる」と預言めいたことを述べているが、61年に木造平屋の第二の教会が建てられた。ヨハネ・ラクロワ師は、「まず祈れ。仕事は種々ある。第一は神の望みを果たすこと」と信仰と宣教活動の根本的考えを示した。その後、エマヌエル加藤師、片岡仁志師と続く。6代目稲用経雄師は86年まで17年間司牧。情熱に満ちた言論と活動を展開し、ミサの説教は40分に及んだ。師は東洋医科大学を設立した明石嘉聞氏と親交があり、医大設立にも尽力したそうである。やがて栃木地区の司祭は減り、小山教会は巡回教会となった。88年清水宏師が着任し、「一人一役皆生役」をモ
ットーに91年5月から「教会だより」を発行。93年から再び巡回教会となり、鈴木国宏師、宮田和洋師が来られ、94年川上剛師が着任、石村明師も加わる。この時代はブラジルなどの南米やフィリピン人が増え、英語ミサや国際バザーが催された。
1994年に浦和教区国際交流センター、オープンハウスが小山に設置された。在日、滞日外国人との出会いの場として、「日本人も外国籍の中の一人、仲間として関わるという意識をもつこと。日本人も旅する教会の一員として移住者である。意識を転換していけば互いに福音を伝え合うようになる」と川上師は表明。楠宗真師とマイケル・コールマン師が第三の教会建設の指導司祭として99年に兼任となり、教会建設の大切な時期に司祭不在の教会となった。維持費を納めているのは22世帯で、建設費が不足。一般建設募金、寄付金、出張バザー、献金協力などを行なった。2000年12月、谷司教により小山教会の献堂式が行なわれた。教会の表側の色から、「ピンクの教会」と言われる。翌年アントワン師が着任。師は自らも教会費を納め、多額の遺産も小山と真岡の両教会に寄付された。当時の岡田司教は、「浦和教区は東京教区の財政規模の十分の一位、16教区中信徒数は9番目、信徒の比率は16番目、外国籍の信者の比率は断然トップ」と述べておられる。アントワン師の協力司祭として土屋和彦師が着任。小山・真岡・栃木3教会共同司牧が始まった。現在はルカ師が司牧。フィリピン人の信徒が多数を占め、南米、インドネシアその他の信徒で、日本人は30名位だそうである。
私の召命について
父方は日蓮宗、母方は神道で、母は宗教的な人であった。小学生のころ、私の心に残る二つのことがあった。古い『主婦の友』の雑誌に記載されていた吉尾信子の「トラピスト修道女と語る」を読み、孤独、沈黙、静寂、聖性、祈りの生活が印象的であった。汽車の中で、白人のシスターが祈りと読書をしている姿を見て、とても美しく高貴に思えたことである。高校入学後間もなく、家の近くの民家でカトリック教会が開いているのを知り、友人と公教え要理を学び始めた。宣教師たちの日本語は下手で、何を言っているのかよく分からないまま1956年12月24日に受洗。受洗後一年を過ぎたころ、ミサ後に県外の修道会に友人を訪ねた状況を誰かが話されていた。「そこでは外部の人が用事で禁域に来ると、ヴェールを下げて顔を隠すそうよ」と。その話を聞いた時、私の中でドーンというような激しい響きがあり、子どものころに読んだ「トラピスト修道女と語る」や汽車の中で見かけた外国人シスターの祈りに沈んでいるようなたたずまいが想い出された。「私はこの生活しか生きたくない。この生き方しか生きられない」という強い想いに捕えられた。教会暦で純心聖母会を見つけた時、とてもきれいな名だということがきっかけで田園調布に行き、続いて故田中孝子も入会。ロア師は「純心は単純で明るいよ」と言われた。何かあると私はあの緑の木立の民家の教会に戻り、心の響きのあった原点に立って祈る。
小山教会で灯された信仰と召命への憧れを導かれた神と人々に感謝いたします。
木更津教会(千葉)
召命の恵みをいただいて
昭和20年3月、東京大空襲でわが家も消失。池袋の叔父の家へ避難し、毎晩恐ろしく夜も眠れず、早く東京から離れたい思いでした。4月に叔父の会社の工場疎開で山形へ、一緒に母と姉妹とともに(父や兄は東京に)連れて行ってもらい、農家の蚕部屋だった一室を借り生活を始めましたが、8月に終戦を迎えた時、農家より復員軍人が帰ってくるので出てほしいと言われ、11月に千葉県の父の甥(漁師)の家に間借りし、その後一軒の家に移りました。この時期は、月に1回千葉市の教会へ参り、ミサに与りました。その後、昭和27年に木更津市にアイルランドよりコロンバン会が来日され、聖堂、司祭館、信徒会館など建築してくださり、宣教活動を始められました。それまで千葉県には千葉市のみに教会があり、郡部にはなく、土地に居られる信者さんのお話では、戦前までは神父様が月一回位巡回して下さり、家庭で場所を提供し、ミサに与ったとの事。初めて近くに教会ができたことを大変喜んでおりました。アイルランドは、レジオ・マリエの発祥地ですので神父様方が大変熱心に指導してくださり、木更津教会でも少ない信者の中から有志数名(家庭人、独身者等)が会員となり発足しました。私も信仰生活、宣教活動に入り、週に1回の集会があり、神父様のご指導と宣教には家庭訪問(教会ができたことをまだ知らない信者の方、離れている方)など、二人一組で活動いたしました。また月1回、コロンバン会の神父様方(郡部にできた同会士指導)の会合が木更津教会で行なわれ、神父様の賄をしておられる女性のお手伝いに、私も家の事を済ませてから教会に参りました。そのため、神父様方のご様子、宣教のご苦労等お話を伺い、拝見しておりまして、私も何か教会のためにご奉仕できればと考え、私のこれからの生涯を教会で神父様方のお世話の仕事に捧げたいと神父様にご相談いたしました。そのご返事は、これからの女性は結婚か修道院へ入りなさいと、私の賄い希望に反対されました。私は、すぐにも修道院へ入りたいという考えを持っていましたが、誰にも相談せず、自分の希望が真実であるか、自分で自己を試そうと、まず毎朝ミサに与ることから始めました。私がこのような考察や判断をするようになったのは、後年、自分の生涯を振り返ったとき、その原因は戦争だと思い当りました。それは戦中戦後の2年間の生活は、両親は病身で収入が無く、まして戦争ですべてを焼失した家族を、20歳と21歳の兄二人が家族5人の生活を支えてくれ、路頭に迷うことなく、貧しいながらも家族が皆揃っていることは何よりでした。しかし生活は死との背中合わせのような日々、物資も食糧もすべて不足しておりました。しかし現在まで生を得ている私たち。自分の意志ではなく、すべて神のご保護の計らいであったと心から思います。具体的にその体験の一例を述べますと、昭和20年3月10日の大空襲で10万人の方々が死亡し、自分は生き残ったのです。一晩中燃え続けた東京の空は、月が太陽のように真っ赤になっていました。その空を見ながら、後楽園(現東京ドーム)に母と姉妹とともに4名、必死に避難し、翌朝自分の家に帰る途中、木の柱が横たわっているのをまたいで歩きましたら、後で父より「あれはご遺体で、下町よりの逃れて来てこの坂下で火に追いつかれ焼死した人たち」と聞き、私たちはその時間より前に通って助かり、何か申し訳ない気持ちと、一生涯忘れ得ぬ体験をさせていただきました。この時から自然に生死について考えるようになり、この世の虚しさも感じました。また戦後、木更津に教会が誕生したことなど、神のおはからいを感謝しております。
私は教会誕生から10年近くお世話になり、修道院への入会が実現しました。木更津教会誕生から10年間に、イエズス会司祭1名、メリノール会に入会された方(米国二世)、そして私と3名が召命の恵みをいただきました。
四谷・麹町教会
私は1954年、東京四谷の麹町(聖イグナチオ)教会で洗礼のお恵みを頂き翌年修道院に入る学生志願期に入りました。土地の召命を考えた時、ここで私に生涯の道を示し導いてくださった神様に、聖職者の方々に心からの感謝を捧げたいと思います。
東京の中心、四谷に位置する「カトリック麹町教会」は「聖イグナチオ教会」という名で親しまれ、様々な国籍の人々が集い、日曜日には各国の言葉でミサも行われ、国際色豊かな教会として知られています。聖イグナチオ教会の前身である「幼いイエズスの聖テレジア教会」は1936年東京大司教区の小教区教会として設立されましたが1945年5月の東京大空襲で焼失したため、上智大学構内にあるクルトゥルハイム聖堂が臨時の教会となりました。1947年麹町教会は東京大司教区からイエズス会に委託され、ロヨラの聖イグナチオに奉献された聖堂の建設が始まり1949年竣工、献堂式が挙行されました。長方形の木造建築聖堂内の天井は巨大な船の底を模って設計されたもの。それはノアの箱舟、救いをもたらす神の教会を表現していました。白大理石製の本祭壇等は米国ブルックリン教会から寄贈され、海外の無数の恩人の寄付によって聖イグナチオ教会が完成しました。当時の信徒数1200名。しかし半世紀が経ち、聖堂の老朽化と信徒数の増加により聖堂の改築が計画され、1999年に現在の建物が完成しました。この新しい建物は楕円形の主聖堂を中心としています。楕円は命と復活の象徴である卵の形であり、主聖堂正面の壁に置かれているイエス像は、復活の姿で両手を広げ訪れる人々を温かく迎え入れています。聖堂を囲む12本の柱は十二使徒を表しています。柱は天井を支え蓮の花を模った天井を通して、ここで祈る人々の上に神の恵みである光がふりそそぎます。さら楕円の壁には12枚のステンドグラスがはめられ、それぞれに神によって創造された大自然が描かれています。主聖堂のほかにも美しいマリア聖堂、ザビエル聖堂もあります。聖堂地下室には納骨堂(クリプタ)があり地下に行く階段上部には以前の聖堂内陣の大きなステンドグラスがはめ込まれ、納骨堂祭壇や両サイドにはイエスの聖心のご像、聖母子のご像、小窓のステンドグラスなどが配置されとても懐かしく心が安らぐ場所となっています。信徒数は昨年度の記録では16364人。信徒数では日本最大規模の教会となり、日曜日のミサは日本語のほか6か国語で捧げられています。
この聖イグナチオ教会のある土地、千代田区は東京都の特別区の一つで、東京23区のほぼ中心に位置し、区の中央には皇居があります。この区域一帯は江戸城の外濠の内側とほぼ一致し外郭を含めた城址に当たる場所となり、また徳川幕府の本拠地として、政治の中心地ともなりました。国会議事堂、国会図書館もあります。1908年に来日したイエズス会によって上智大学が1913年に創設されました。四ツ谷駅を出るとすぐ目に入る上智大学の建物群、楕円形に広がる教会と鐘楼、大学正門前のソフィア通りを隔て土手下に広がるグランドは江戸城の外堀だった真田濠の埋立地で、このあたり一帯は徳川御三家の敷地であり東京では高台の一つに入る場所として選ばれたとの記事があります。この桜並木の土手は展望がよく、晴れた日には迎賓館やホテルニューオータニも見えます。教会から駅前の通りを隔てた先には雙葉学園と、幼きイエス会修道院も隣接しています。また四谷見附を新宿通りに沿って新宿方面に向かう交差点角にはサンパウロ出版社があり、さらに行くとドンボスコ社、典礼センター「ピエタ」も少し離れた所で営業中です。この辺りはキリスト教グッズが揃っていて、何時でも気安く買いに行ける便利で楽しい場所です。
建立されて間もない聖イグナチオ教会に、私が友人に誘われて始めて訪れた高校1年の頃、この教会の内部の静けさと美しさに魅了されました。3人の学友とともにテレジア聖歌隊に入り雙葉高校の方々と一緒に練習に励みました。美しい聖歌を熱心に教えて下さった銀髪で小柄なイエズス会のリドニ神父様、「日本の聖母」「我は主を愛す」等の聖歌は特に私の心を燃え立たせました。
イエス様の愛にすべてを捧げてお応えしたいとの熱望が自然と湧き上がってきました。遠いハンガリーから中国では死の危険にも直面しながら来日され、ひたすら宣教の使命を生き抜かれたこの老司祭のお姿は、何時までも私の心にその美しい聖歌のメロディとともに刻まれています。
引用資料
「巨きな木の舟」 聖イグナチオ教会
「東京人」雑誌2013 no33312月増刊
「上智大学と四ツ谷界隈の100年」
「聖イグナチオ教会公式ホームページ」「千代田区公式ホームページ」
埼玉(草加)
草加の位置とすがた
足立区と隣接する草加市は都心まで40分、浅草から栃木までつなぐ東武伊勢崎線の沿線にある。教会は駅東口から徒歩8分。駅名の「松原団地」(1962年入居開始)はかつて「東洋一のマンモス団地」と呼ばれたほど規模が大きく、駅の西側にA~D地区まで広がっている。市の中ほどを通る旧日光街道の両側にそびえる松並木「草加松原」は、2014年国の名勝地に指定された。「草加せんべい」はかつての宿場まちの名残である。
団地で生まれた教会
1962年、松原団地在住の一信徒の自宅を川口教会の分教会として集会が行われるようになった。やがて団地在住者を中心に信徒数が増え、分教会の本拠は1965年に団地内に開設された藤幼稚園(殉教者聖ゲオルギオのフランシスコ修道会経営)に移される。1979年、拠点教会などの支援や借入金によって教会が完成し、1981年に小教区として独立。ほどなくして主日のミサに信徒が聖堂に入りきれなくなり、隣接地を購入して後に現在の教会に建て替えられた。
司牧の状況等
私の家族は1970年5月に草加に転居し、小学2年から高校卒業までの11年間を過ごした。当時、埼玉県南の司牧は教区司祭のほか、フランシスコ会とパリ外国宣教会が担っていて、小学6年まではいろいろな神父様が司牧に来ていた。教区の篠原師、石川師、宮田師、猪俣師、鈴木師、パリ外国宣教会のワレ師など。黙想会には御受難会のウオード師が来ていた。中学に上がるころ、石川師が群馬で難民のための仕事を始めるとのことで送別会があったが、大人の反応は冷ややかで、悲しかった思い出がある。司教様の許可を得てのことだと聞いたが、信徒の理解を得るには難しかったのだろう(石川師の仕事は後年、「あかつきの村」として発展した)。中学1年からは、川口教会の主任になった教区の野上貢師(故Sr大泉クララの甥、故Sr篠田のいとこ)が6年間司牧された。同世代の仲間はそれなりにいたが、堅信を終えると次第に見かけなくなった。高校生になったころ、神父様は教会建設に本腰を入れるため、私の家から5、6分のところに小さな家を借りられた。夏休みに要理の勉強に神父様のところに通い、生活を垣間見てその貧しさに驚いたが、純粋に神と教会のために生きる人とはこういうものかと思った。建設費調達のため親戚回りもされ、物静かだがこうと決めたら必ずやりとげられる神父様との思い出は私の宝である。念願の教会は高校2年の秋に完成した。
親から受け継いだもの
父は御徒町の生まれで14歳までに相次いで両親と死別した。その後、生家の呉服屋をたたんで姉弟を親戚に預け、就職するたびに空襲で焼け出されること3回。母は阿佐ヶ谷の出身で2人とも結核を患い、清瀬の療養所(ベトレヘム病院)で片肺を切除するという同じ道をたどった。父は療養所で、母は高円寺教会で受洗。療養所はパリ外国宣教会の司牧で、メイラン師やミルサン師のことを後々母が話してくれた。
両親は結核回復患者の会で知り合って結婚。母は年子で私と妹を出産した。思い起こすと、2人とも常に体力的に薄氷の上を歩いている感じだった。私と妹は幼児洗礼で、阿佐ヶ谷から浦和、足立区綾瀬、草加と転居した。父は愚痴を決してこぼさない人で会社勤めを誠実にこなし、いつも前向きだった。母は家庭をよく守り、教会に関することにとても熱心だった。前述の石川師の廃品回収に定期的に協力し、司祭の話を聞く集いを家で開き、近所の人を何人も信仰に導き、信徒からの相談にのり、病人訪問などをしていた。中学生のころ在世フランシスコ会に入っていたが、私の入会後は聖霊刷新の祈りの集いを家でやっていた。若いころ、修道生活を望んだことがあり、修道者が読むような霊的読書を手元に置いてボロボロになるまで愛読していた。母の病弱な体から出る求道心は、中世の巡礼者のそれと同じ感じがするように思う。
召命への導き
高校3年に体験したいろいろなことが、直接召命へ導くきっかけとなった。夏休みの長崎でのカトリック青年大会と前後の旅行、その途上でのバングラデシュ難民の青年との出会い、主の呼びかけを聞いた召命黙想会など。召命への働きかけは誰からもなく、私の意思は当初、神父様さえ半信半疑だった。しかし、すべては両親とたくさんの神父様方、教会の中で育てていただいた結果である。この稿を書くことで様々の恵みを振り返ることができ、御父の手に確かに導かれて今日があることを心から嬉し
く思う。感謝!
(草加市HP、『北関東のカトリック』カトリック浦和教区史誌編集委員会)
東京(八王子)
八王子教会は、東京では築地、神田、浅草教会に次いで古い伝統ある教会として知られている。今年11月で設立139年になる。1873年(明治6)「キリシタン禁制の高礼」が撤去されその4年後にパリ外国宣教会のテストヴィド神父によって八王子教会の歩みは始まった。彼は東京方面だけでなく神奈川、静岡、愛知、浜松方面まで広範囲にわたって宣教活動を行っていたが、あまりの激務ゆえ、病に倒れ(胃癌)1891年に帰天(享年43歳)この頃にはすでに信者数300人を超えていたと言われている。その後も同会司祭が巡回司祭として宣教活動は続けられていたが1893年にメイラン神父が主任司祭に任命され、この時から「八王子小教区」が発足、メイラン神父もテストヴィド神父に劣らず献身的で惜しみない心で宣教熱意をもって、たくさんの人々を神へと導いていった。この頃、当時の若者たちがメイラン神父の宣教師としての熱意にひかれ感銘を受け司祭、修道者となりはじめ、後の世代にも多くの召命の道を歩む人たちが生まれていった。メイラン神父は44年の宣教活動を終え1936年引退。以降、邦人司祭が主任に任命されるようになった。1944年西田佐市神父が主任代理として着任したが、同年6月召集。しかし12月には召集解除となり帰還。1945年8月八王子空襲で教会全焼、8月15日終戦。西田神父は焼け残った塚本芳雄宅(父)で被昇天のミサを行った。以来教会ができるまで塚本十一朗宅と交互に主日のミサを行った。この段階で西田神父は八王子教会主任神父に任命される。
西田神父の時代になってから立川教会(54年)町田教会(58年)五日市教会、豊田教会、青梅教会(67年)と次々に八王子小教区より独立し主任司祭もそれぞれの教会に任命され、八王子教会とともに昔の宣教者たちの熱意と模範に倣って宣教し今日まで活発に動いている。この八王子教会の熱い、力強い歴史の流れの中に塚本家の信仰の歩みがテストヴィド神父のときから始まっていたことを改めて知るチャンスを今回この「土地の召命」をまとめることによって得たことを感謝し、どのようなルートによって祖父塚本五朗から父芳雄に受け継がれ、子孫に伝えられていったかを少し書きたい。
私の祖父塚本五郎は若い時に八王子の家を出て、横浜で日本に来たばかりのサン.モール会の小使いとして働いていた。この時、神様のお計らいとしか言えないほどの不思議なパリ宣教会ミドン神父との出会いがあり、彼はイグナチオの霊名をいただいて洗礼を受けている。結婚して妻ダイも洗礼を受け、二人は八王子に帰ってテストヴィド神父に協力するようになった。神父が八王子を訪れる時は自宅を宿として提供したりしていた。その五郎の長男が芳雄(父)で母滝子も富士吉田でミッションスクール在学中ドライ神父より洗礼を受けていた(祖父、父母とも宣教会司祭の熱心な教えを受けていたことがはっきりする)。この芳雄夫婦の間に男子2人、女子7人生まれ、11人の大家族であった。この家庭は主任司祭西田神父とともに歩んでいた。八王子教会で芳雄の家族といえば最初の熱心な信者の家族と認められたくらい。両親は子ども全員に幼児洗礼を授け、生活の中に信仰の芽を芽生えさせ豊かな情操教育も育ませていたように思う。家庭内では家族そろって祈り、毎土曜日には子ども全員が公教要理を受けるため八王子教会までバスで通った。母は時々厳しく待降節、四旬節にはお捧げをすることを勧め、おやつを少なめ、欲しいものはクリスマスまたは復活祭を迎えてから、歌ったりはしゃいだりすることも控えめにするなど。私たちはそれを当然かのように家族そろって励まし合いながら実行した。小学校では私の家族と親戚の塚本家だけがカトリック信者で時々「アメーン、ソーメン、ヒヤソーメン」と冷やかされた。別のことでも小さいながらに苦しんだ体験がある。それは私の堅信式が運動会と重なってしまい、前日に先生に「明日は教会に行かなければならない」と話すと「どちらが大切か?」と言われた。叱られそうでドキドキしながら、私は「教会」と言ってしまった。先生はじろっと私を見て、「それなら教会に行け」と言ってくれた。これは親からの信仰教育のおかげとまた立派な信仰宣言であったと大きくなってから我ながら感心した。
あるとき西田神父は私と姉妹たちを車に乗せ遠くへ連れていった。何があるのかを知らないまま到着したのは藤沢の聖心布教姉妹会だった。後で誓願式であったと分かったのだがおそらくこの受式者のなかの誰かが八王子教会出身の方ではなかったかと思う。式はとても荘厳で聖歌も美しく天国の喜びのようだったと記憶している。受式者のシスターたちがベールの上にばらの冠をかぶって並んでいた姿が印象的で、ミサ中に私もシスターになりたいと心の中に感激と同時に何か決断させられたような神性なものを感じた。
中学生になり自分の召命のため祈っていたころ、西田神父より「八王子にミッションスクールができるよ。そこに行かないか」と勧められ東京純心高校1回生として入学できた。入学して間もなく生徒の中に長崎から志願者が来ているのを知り、私もその人たちといっしょにシスターになる道を歩みたいと思うようになり、その年の11月に志願者として会に受け入れていただいた。八王子教会を辿りながら、私の家族の信仰の歴史を見つめることができ、本当に八王子教会が始まった時から一本の強い信仰の糸によってすべてがつながっていたように思える。外国から命がけで来られた宣教者の蒔いた種が芽を出し、枝をだし実を結んでいっている。
今の八王子教会は外国人も多数入り、国際的になり、信徒とひとつになって歩み続けている。これからも八王子教会から司祭、修道者が生まれますよう祈り続けたい。
栃木県・松が峰教会
「歩く宣教師」ヒポリト・カジャック神父の司牧のもと、松が峰教会が誕生してから今年で117年になる。カジャック神父は、パリ外国宣教会から派遣され、北関東(栃木、茨城、群馬、埼玉)から八王子、横浜を祈りながら、家々(当時、カトリック信徒は誰もいない)を訪ね歩き、時には馬に乗って宣教した。仏教思想の強い人々との会話は外国人宣教師にとって多難であったはずだが、殉教者の精神と宣教への篤い思いと忍耐で乗り越え、信徒を誕生させ聖職者を輩出した。宇都宮出身の聖職者は元横浜教区長荒井勝三郎師をはじめ50余名を数える。
松が峰教会は県庁所在地の中心地に、迫害、戦争、火災、その他の苦難を耐え、凛として聳え立つ大谷石造り=ロマネスク建築の雄姿が特色である。昭和33年の頃はJR宇都宮駅からも教会の二塔を見ることが出来たが、街の発展に伴い林立する高層ビルに隠れ、現在は東武線電車の窓外から異色を放つ教会全景が確認できるだけとなった。平成10年「登録有形文化財」に認定され、ライトアップされて夜景の絶景地になっている。
松が峰教会は1932(昭和7)年11月、シャンボン東京大司教の司式のもとに荘厳な聖別式が行われた。その後、大戦で大半を焼失するが、終戦の昭和20年、長期抑留生活から解放されたシャレット・ミカエル(フランシスコ会)神父が教会主任として着任され教会の再建に着手された。
開園まもない松が峰幼稚園の園児となった私たち姉妹にとって、ミカエル師の愛車(ジープ)に乗せていただいたことや、回廊式の司祭館で「どんぐり駒」を作り、神父様な手のひらで回して見せてくださった温かい触れ合いなど思い出がある。大戦前の教会にはフランスから取り寄せた美しい色ガラスがはまっていた。その破片が土に埋まっていたのを掘り出して宝のように大切にしていたこと、神父様手作りの遊具や人形の家、市内バスを内部改良したおもちゃの家で遊んだことなど幼稚園時代の思い出が蘇ってくる。
卒園後、私たちは公立小学校に通い、教会から遠のいたが、Srベルナルダ洋子が海星女子学院(マリアの宣教者フランシスコ会経営、現在はさいたま教区立)中等部3回生として、SrMクララヒロ子は高等部4回生として、Srアスンタ福田眞澄は12回生として中等部に入学、それぞれが学院で受洗の恵みを頂いた。Sr福田が国立栃木高等看護学校時代に私たちと出会い、本会でともに召命の道を歩むことになった。
松が峰教会主任であった野口義美師(長崎出身)とは、家族同様の親交を持ち、神父様のとりなしで田園調布の小さき花の幼稚園で初代会長様とお会いしたことが本会への入会の機会となった。私たち姉妹の両親、Sr福田とご祖父は野口師から、Sr福田の父上は戸村師から受洗。母(フユ)アンナが設立したレジオ・マリエの活動は今も継続されている。
松が峰教会の今日は、主日・祝祭日のミサ前にアンジェラスの鐘が響き、フランス国籍主任司祭ザビエル御前(みさき)師の宣教の実りも豊かで多数の信徒が積極的に、生き生きとミサに参加している。平成24年、教会会館が新築され、小聖堂には Srクララヒロ子のデザインのステンドグラスが時移る日差しに美しく映えている。
松が峰教会から分かれた峰教会「聖家族教会」がある。平成7年、故高橋明主任司祭の代に新聖堂と納骨堂がSrクララヒロ子のデザイン(ステンドグラスとモザイク制作他)・兄(功)の設計・施工によって落成。その折に功兄家族4人が受洗。ミサには家族連れで参加する姿があり、家庭的な教会である。
2014年、海星女子学園創立50周年を迎え、同窓会が企画した記念行事としての講演会にSrベルナルダ洋子が講師として招かれた。純心聖母会の修道者としての証になれば幸いとの思いで役目を果たした。宇都宮から召命の恵みに応える者が出るように共に祈りながら過ごして行きたい。
参考文献
・『カトリック松が峰教会宣教100年の歩み』(1988年)
・教会パンフレット 松が峰教会会報
群馬の教会
群馬の教会の霊的風土
1882年(明治15)のクリスマス、パリ外国宣教会のヴィグルー神父とカディアック神父が来日し、翌年から群馬県を含む北関東の宣教が始まったと言われます。北関東という広大な地を、東京の築地教会から徒歩で巡回。「歩く宣教師」と親しまれ、その後豊かな実りをもたらすみことばの種まきが始まりました。1895年には北関東で4番目の新町教会が建てられ、明治期の群馬における宣教拠点となりました。
明治憲法で信教の自由が合法化されるまで、教会が周囲からの無理解や迫害に苦しんだのは群馬県でも同じことでした。更に戦争中は外国人司祭が拘留されるなど、厳しい時代を経て、戦後、フランシスコ会が群馬県の宣教を委託されます。アメリカや中国で宣教していた多くの宣教師が来日。新たな宣教が始まりました。1953年には高崎と館林に小教区が設立され、料亭の2階や地元の名士に提供された家屋や民家の倉などを改造し、貧しくとも喜びに満ちた教会が次々と生まれました。
その当時を彷彿とさせる、野中晴江が受洗へと導かれたエピソードを紹介します。
終戦後の事。高校を卒業後、母校の用件を携えて訪れたとき、ローカル線の駅に多々並ぶパンフレットの中に、見慣れない「富岡カトリック教会」の文字を見つけました。イエズス様が両手を開いて立つ聖心の写真と「重荷を負う者我に来たれ!」との言葉。一枚持ち帰って度々眺めているうちに、「一度、訪れて見よう」と思い立ち、教会の門を叩きました。この日から、週一度、仕事の合間をぬって勉強会に出席。
足繁く通う間に友達もでき、夏の軽井沢でのキャンプや桐生修道院での聖体行列など教会行事に参加し、月一度の集会とロザリオの祈りやレジオ・マリエの会にも出席。病人見舞いや貧しい家庭の訪問などをはじめると、限りなく教会活動の意義を体で感じるようになり、洗礼を決心しました。主任司祭に伝えると、「今週これを持って、あなたの町の子どもたちにどれか聖書の箇所を選んで話してください。これが受洗のテストです」と聖書を手渡されたのです。言われるままに、その週の土曜日に町に出て、子どもたちに声をかけると20名くらいの小学生が集ってくれました。そこで、信者の方のお座敷をお借りしてマリア様の歌を歌い、続いてイエズス様の洗礼の箇所を選んで話した記憶があります。
何も分からないのによく話したことと思い出すたびに感心しますが、座敷を提供してくださった老夫婦も襖の陰で聞いておられたと聞き、ビックリしたことでした。主のみことばはどんな不束な言葉であっても、ご自分の宣教活動にお使いになるのだと感謝し、8月15日被昇天の祭日に無事に9人の仲間と一緒に受洗の恵みをいただきました。
当時の富岡教会は信徒宅などに分教会を設置し、ミサ、公教要理、聖書の勉強会、英語教室などを行い、子どもたちを集めて227か所で教会学校を開催していたと言われています。この教会学校から誕生した信徒も多く、活動も活気に満ち、教会が生まれて翌年の堅信式には6名、2年後には124名が受堅したそうです。
現在、群馬県も教区司祭による司牧地となりましたが、群馬の教会の霊的風土に深い影響を与えているのはフランシスコ会士の霊性です。ある教会の信徒の回顧録の中に、草創期に赴任した司祭について次のような文章があります。彼はアシジの聖フランシスコの生き方、清貧、貞潔、従順の精神を徹底的に実践している宣教師であった。一つの例に過ぎないが、神父に眠りにつける蒲団がないことを知った貧しい信徒が、やっとの思いで作った布団は、次の日もうそこにはなかった。彼にとって、全ての物質は主の道具でしかなかったのだ。又、戦争の傷が顕著になってきた時期であった。米兵と日本人女性の間に生まれた子どもの養子縁組に奔走した。そして一方では宣教に必死に取り組んだ。(中略)公教要理は、(中略)廊下まで人は溢れていた。それにしても、彼はいつ眠りについたのだろうか。聖務日課を果たして、眠る時間のないまま、朝の聖務日課を行ったのではないだろうか。貧しさや、悩みを持つ人のために、少しの時間を、と言われてそれが終日となることは珍しくなかった。貧しさを愛し、単純で明るく、誰にでも親しみやすく声をかけ、苦しむ人に惜しみなく奉仕するフランシスコ会士の姿は人々の中にキリストをもたらす、単純で最上の宣教方法でした。このような宣教師の姿は群馬県の信徒の原風景となっています。
現在、県内にはハンセン氏病患者のための草津教会を含め13の教会があります。「あかつきの村」で始まったベトナム難民の受入れは、各教会にも引き継がれ、またある時はイランからの亡命者を受け入れる教会もありました。♪世界はみんな兄弟さ♪(『平和を祈ろう』より)の歌のように、小さき者とともに生きる聖フランシスコの霊性が、当たり前のように群馬の信徒の心に受け継がれ、現在、各教会には様々な国籍の信徒が大切なメンバーとしてともに集っています。
私たちは今、教皇フランシスコの語る言葉を聞くたびに群馬の宣教師たちを思い出します。彼らの模範に育てられためぐみを感謝しながら。
ブラジル
ブラジル(ピニアウ教会)
私は、1976年3月5日に生まれ、サンジェロニモのピニアウ教会で、4月4日に洗礼を受けました。私をはじめ、年上の兄、姉と一緒に、初めて召命の集いに参加したのは、オルチゲイラという町で、1989年の9月。2つの男子修道会と4つの女子修道会の企画で、2日間の集いでした。この集いを通して、宣教者の生き方に興味を持ち、ほとんど1年間、召命の集い、通信を通して、関わっていました。
1991年3月、両親と8人の兄弟みんなで、クリチバに移転することになり、オルチゲイラのシスター方とのかかわりは途絶えてしまいました。その修道会がクリチバにあることは知っていましたが。
純心のシスター方を知ったのは、私が、17歳を迎えようとしていたころでした。1992年10月31日、11月1日にかけての召命の集いが、黙想の家でありました。この召命の集い以来、「わたしが?」との思いが、心に残っていました。その後、土曜日の午後、ノビシアでの待降節のノベナなどに参加しながら、シスター方の生活を知り、お互いを知る時を得ました。1993年1月31日、志願者として入会しました。
このようにして、私の歩みが始まり、40歳を迎え、終生誓願5年が経ちました。
今の、わたしの使徒的宣教は、老人方の介護を通してです。人生も修道生活も順風ばかりではありません。最後に、皆様にお願いしたいことは、この便りを読んでいただき、私の歩みに、堅忍と聖なる者となる生き方を祈ってくださるようお願いいたします。
ブラジル(アモレイラ教会)
私は、サン・セバスチアン・ダ・アモレイラという町で生まれましたが、市外に住んでいました。サン・セバスチアン教会で、大沼ジェロニモ神父様から洗礼を受けました。その後、勉学の都合で、住んでいた市外から移転し、町に住むことになりました。
12才のころ、修道召命を感じ、母に話しましたら「もっとよく考えなさい」と言われ、時が過ぎていきました。時が過ぎていく中で、また母に話しました。母はそのことを、神父様に相談しました。それでコルネリオという町にあるドミニコ会を紹介されました。母は、ドミニコ会のシスターに話しに行き、今の年令では、若すぎて、入会はできないと言われたとのことでした。
こうして時が過ぎ、19才となり、高校最終年でした。この年、母の仕事が保育所に代わり、純心聖母会のシスター方と働くことになりました。母も、シスター方と働きながら、私の召命のことを話しました。それで半日、保育所に行きながら、お互いを知る機会を持つことになりました。一緒に、祈ったりしながら、自分の召命を知る、大切な時を得ました。高校を卒業する時期になり、自分の修道召命ももっと強く感じて、シスターに入会希望を話しました。母はいつも力と励ましを与え、いつも祈っているからと励ましてくれています。
ブラジル
私はサポペーマのランバリという町に生まれました。ランバリはサンジェロニモから車で30分の所です。町にはサンタクルスと言うカペラがあり、70年以上木造でしたが今はコンクリートに再建され塔もできました。カペラはサポペーマの巡回教会で、私が幼い時、神父様はポーランド人の宣教師でした。私はその神父様から洗礼、初聖体、堅信を授けていただきました。父の家族はみんなプロテスタントで叔父は亡くなるまで牧師でした。母の家族は全員カトリックで、祖父母は聖体奉仕者でした。祖父は正義感が強く信仰があり、よく祈る人で私の信仰教育と召命に影響を与えてくれました。思い出すのは、幼い私を自分の膝において、モーゼ、アブラハムなどの絵がついている聖書を見せながら物語を話してくれたことです。私は祖父の話が大好きでした。両親は小さい私に祈りを教え、家庭でロザリオを唱えてきました。その頃、私たちの町にフランシスコ会の宣教師がやってきて、カペラの近くに宿を取りました。私の家族は食糧を持って行って彼らを助けました。ある日、母と果物を持っていったら代わりに御絵をもらいました。御絵をもっともらうために毎日みかんを持っていき、たくさん御絵が集まりました。私が中学生のころ、佐々木神父様がサポペーマ教会の主任になり、イルマン田中とイルマン髙平も一緒に来られ、月1回、ミサが行われるようになりました。ミサ後、私の祖母の家で昼食やお茶、休息を取っておられました。
14歳になったころには、シスターになりたいとの願望がありました。ビンセンシオ会のシスターたちを知っていましたが、私の家に一度もいらっしゃったことはありませんでした。母はその理由で、そちらの修道会には薦めなかったのです。そして純心聖母会に入ると決めた時、母はすぐに賛成してくれました。
ブラジルは少ない司祭でたくさんの巡回教会を持っています。とても遠いところもあります。ランバリでは、ミサがない主日は信徒が集まり、ことばの祭儀が行われ、聖体奉仕者から聖体をいただくのです。
私はこれまでたくさんの方々から助けられてきました。キリストに従っていくために今も祈りでもって助けられています。信仰ある家庭に育ったことを幸せに思い、神に感謝しています。
私は7、8歳のころ、モジダスクルージス市の「カルメルの聖母教会」にカテケーゼに通っていました。ある日、母とその教会の前を通った時、日本語でミサがたてられていました。初めて聞く日本語のミサに母は驚いていました。教会に入っていくとアメリカ人のマクドナルド師でした。1963年、日本からコンベンツアル会の松尾師、山頭師、山内師が派遣されて来ました。
1968年、山頭師によってモジの宣教活動が開始され、当時日系人の教会がなかったので、ベネディクト教会の後方の小さな部屋を借りて、日本語とポルトガル語でのミサが捧げられていました。
1988年、司祭館の横に聖マキシミリアノコルベ体育館(会館)が落成し、日系人のミサや堅信式が行われるようになりました。2003年には、人々の長年の夢であった聖マキシミリアノコルベ教会が建てられました。信徒は、すき焼き、バザー、ビンゴ、焼きそばなどで建設のために協力しました。モジの町には多くの日本人がいます。また、たくさんの信徒もいます。
私がモジダスクルージス市を出て35年になりました。家族は3、4回、家を引っ越しました。その度にあちらこちらの場所でカテケージスを受けました。コンベンツアル会の神父様たちがたびたび家にきて、一緒に食事をしたり、遊んだりしました。日本人のシスターたちも時々来てくれました。子どものころの楽しい思い出です。
私も神父様方のように、教皇様が言っている「出かけて行って家庭を訪問する」ことを意識していきたいと思います。
私はカトリックの家庭に生まれました。サンジェロニモの町から35キロ離れた田舎でパッソリーゾという小さな町、「恵みの聖母」教会で、生後29日目に洗礼を受けました。その町には5歳までいました。1か月に1度両親とミサに参加していました。母に言わせると幼児期の私は悪魔から自分を守ってもらうために、牧場の雑草で十字架を作り、ベッドの上に置いていたそうです。それからサンジェロニモの町の近くに引っ越しました。いつも夕方6時にはお告げの鐘がなり、子どもたちが祈りをしているのが聞こえ、私も一緒に祈りたいと思っていました。この時間が私は大好きでした。
何年か経ってサンジェロニモの町に住むようになりました。ある人から教会の子ども聖歌隊に入らないかと誘われ、教会では献金を集める係りや、ミサの聖書朗読をしたりしました。その頃、姉が修道院に入りたいと言ったので、シスターたちが家に来るようになりました。姉はケンカもしなかったし、あまり外にも出なかったので修道者に向いていると思っていましたが、しばらくして姉は修道院へ行くのが重荷になってきていました。そのために訪問して来るシスターたちには会わなかったので私が接待し、姉の代わりに話をしなければならなかったのです。
私が初めて純心聖母会の召命の集いに参加したときのこと、折り紙で花を折り、それを水のなかに入れる作業がありました。あるシスターが水の中でその花が開くと召命があり、開かないと召命はないと言われました。私は姉のために参加していたので内心ばれてしまうのではないか、そして花は開かないのではないかととても心配でしたが、折り紙の花はきれいに開いたので、私にも召命があるのだと嬉しくなりました。それから私は召命の集いがあるたびに積極的に参加するようになっていました。そして今、修道者としてここにいることは神のみ旨だった。具体的に聖書のひとつの言葉を生きてきたと思います。
「私はあなたをほめたたえます、あなたはこれらのことを知恵のある人には隠し、小さい者に現して下さいました。」(マタイ11・25)
パラグアイ
熱帯地方のパラグアイ、90%がカトリック信者の国で、私が生まれたのはラ・コルメナという現在人口5200人の小さな町で、その内の7%が日系人です。私たちの家族は、聖フランシスコ・ザビエル教会に所属していましたが、日本人は私の家族といとこ家族だけでした。私が初聖体を受けたころの教会は、壁は出来ていましたが、屋根は半分だけ、堂内のあちら側半分は草が生えているという状態でした。そんな教会の状態でしたが、今思うと、誰もが気にせずにご聖体をいただく喜びの方が大きく、初聖体式をこの教会で祝いました。
当時は巡回教会だったので、司祭はクリスマス、復活そして12月3日の聖フランシスコ・ザビエルの祝日に来られてミサを挙げられ、初聖体式はザビエルの祝日に行われていました。現在も初聖体式は、聖ザビエルの祝日に行われています。
神父様がいらっしゃることと祝日を迎えること、特にクリスマスを子どもながら楽しみにしていました。田舎で電話もなかった時代に、不思議に母は神父様がいらっしゃることを知り、静かにささやかな物を準備して神父様に届けていました。
5月の聖母月と10月のロザリオの月には、夕食後、各地域でマリア様のみ輿を4人で担ぎ、各家庭に2日間ずつ留まるようにして回っていました。ロザリオ一連を歌いながら移動しておりました。わが家は一番離れていたのでいつも最後の日でした。
夏休みだったと思います。小学校の先生を引退し、教会のお世話をしていらした方が時々シスター方を案内して家にこられていました。特別な事は記憶に残っていませんが、私の召し出しはきっとその時に呼びかけがあったのではないかと思っています。