純心聖母会は、長崎大司教区に本部を置く聖母マリアの汚れなきみ心に捧げられた教育と社会福祉の使徒的活動を行う聖座法の女子修道会です。

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純心聖母会
〒852-8142
長崎県長崎市三ツ山町415
TEL.095-848-2241
FAX.095-843-7570

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020043
 

福 音 宣 教 の 小 道

 

★神様のひろば★

★神様のひろば★
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高齢者に優しい
2017-07-01
高齢者に優しい (鹿児島修道院)

 鹿児島市民になって4年目になります。鹿児島市福祉行政のいいところは、老人に優しいところです。その最たるものは、70才以上の高齢者への交通費の割引制度です。こんなに大きい丈夫な私なのに、子ども料金より安くバスや電車を利用できます。いいのかなあと申し訳なく思いつつも、私はこの恩恵をフル活用して病人訪問に出かけます。
 鹿児島大学病院には、川内純心高校の卒業生のご主人(43才)が急性骨髄性白血病のため長期間闘病中です。厳しい抗癌剤治療が続いています。病人本人はもちろん看病する側も先行きのわからない展開に疲弊しきっています。このような時、どんな言葉があるのでしょうか?言葉を選ぶのに慎重になります。でもあるのです。一番いいのは祈りです。信者でいらっしゃるので、ロザリオを一連、一連、一緒にゆっくり静かにとなえます。たったこれだけで何もできないのに毎週水曜日の午後の出会いを楽しみに待ってくださっているのがうれしいのです。ちなみに純心学園前のバス停から大学病院まで片道60円です。
 今給黎病院には、一人暮らしの信者の女性の方が入院中です。鹿児島駅の近くなのに電車だと純心学園前からなんと50円です。本当に格安料金でみ言葉を携行できるのです。タクシーは、割引料金がないので一切利用することはありません。もっぱら電車とバスのみ。足も体も丈夫ときているのでどこまでも行くことができます。今のところ自分のことで病院にお世話になることはありませんが…。でも本当に思います。病気の方々の犠牲に比べ私のそれなどはなんととるに足りないちっぽけなものなのかと。自分の生半可な生き方にあらためて気づかされる時でもあります。
 老人施設に入所されている100才を超えられた元ご父兄のお年寄り、少しお体が弱くなられた恩師等、東奔西走とは少し大げさだけど訪問を続け、病気や老齢の方々とのしばしの友となるべく寄り添える時間をこれからも大切にしていきたいと思っております。これもすべて鹿児島市福祉行政のおかげです。
 その他、月1、2回のお母様方との聖書の学びもあります。こんな私でも神さまの促しにそってみ言葉とともに生きる道をこれからも模索していきたいと思います。
 
みことばを語ること
2017-06-01
みことばを語ること(小野田修道院)
 
 「気を紛らわせるために、聖書を書き写して暗記するようにしています。」服役中に母親を亡くした受刑者の青年Sさんが、亡き母のために祈って欲しいと、個人面会を依頼してきた。小さな面接室で一緒に祈った後に、先程の話をしてくれた。母を支えにして生きてきたSさんは、まだショックから立ち上がれずにいた。その悲しみを忘れるために、図書棚にある共同用の聖書を週3日間借りては書き写し、後の4日で暗記する。それを繰り返しているというのだ。私は彼の話を聞きながら、聖書を差し入れしようかと迷った。しかし、即座にその考えを否定して、「大きなお節介だ」と自分に言い聞かせた。自分用の聖書を持つのが当たり前の私には、聖書を丸暗記するというSさんの行動が本当に驚きであったが、神のなさり方にふれて温かい気持ちにもなれた。
 小野田に来てしばらくたったころ、イエズス会の神父様から教誨師の誘いを受けた。人手が足りないので手伝ってほしいとのこと。ちょうどそのころ、私は修道者の存在の意味について考えた末、大切なことに気づかせてもらっていた。「みことばを語らなければ…」と。そんな時の誘いだったので、私はこれをみ旨と感じて応えることにした。8年前のことだ。あれから毎月、車で一時間の距離を美祢社会復帰促進センター(刑務所)に通い、10数名のグループで聖書の分かち合いをしている。私が話すというより、私の口を使って神が語ってくださる。そう思えるようになってきた。「語る」ための準備をしている時、あるいは聖書の分かち合いの間、受刑者と一緒に「主の祈り」を唱える時、そして、彼らの辛さや不安に黙って耳を傾ける時に、私は確かにより間近にイエスと出会えているのだ。
 先日の分かち合いの後で、Sさんが穏やかな顔で質問してきた。「主の祈りの場面は聖書の中に2か所あるのですが…。」と、聖書の箇所が彼の口からすらすらと流れ出るではないか。咄嗟の彼の問いかけにオロオロとしながらも「投げ出さないで頑張っているな」と嬉しくなった。刑務所の塀の中でも、神は自由に働いておられるのだ。いま、「みことばを語る」喜びが私の中にある。ただただ感謝である。
 
神様や聖書について何でも聞いてみよう
2017-05-01
神さまや聖書について何でも聞いてみよう  (三ツ山修道院)

 「神様や聖書について何でも聞いてみよう」と呼びかけるポスターが学内の数か所に掲示されている。カトリック学生の会が主催している企画で、シスターや信者の先生数名がそれぞれのテーマを持って学生を募っている。宣教の一環として私も何かできればと思い名前を連ねてはいるものの、待てども、待てども学生が訪ねてくる様子はない。どうしたものかと思案していると、タイミングよくゼミ生を担当することになった。
 私の担当するゼミ生はモンテッソーリ教員を目指す学生で、半数以上の学生がカトリック系の幼児教育、保育現場に就職していく。しかし、ゼミ生の中で信者は1パーセントいればよい方である。学生は大学でキリスト教についていくつかの講義を受けているが、本人たちも十分理解できていないことを自覚しているため、就職後、日々の保育の中で行われる、お祈りや宗教行事等に対する不安を抱いている様子が伺える。そこで、4年生の後期に週1時間の勉強会をやってみようと思い、ゼミの4年生に自由参加ということで呼びかけた。昨年3回目の勉強会を行ったが、いずれも8割以上のゼミ生の参加があった。
 勉強会の内容は園で行われる宗教行事を踏まえて、教会暦について、教会の建物内の説明や意味について、旧約聖書の振り返り、お祈りについて、聖母マリアについて、宗教行事に向けての準備のあり方などである。「講義で習ったはずだけど」と言いながら聖書の内容や人名を質問すると、苦笑いをする学生、張り切って答える学生など様々である。時にはとんちんかんな答えをして、皆で爆笑することもある。学生からは、「意味が分かった」、「整理ができた」などの声も聞かれるので、少しは役に立っているようである。終わりにはお茶をして和やかに過ごし、あっという間に1時間が過ぎていく。
 モンテッソーリは幼児期に「宗教を感覚的に理解する鋭い敏感期があることを知りました」と述べている。環境から多くのことを吸収する幼児期に宗教的環境を整えることができる保育者であってほしいと願っている。就職後、彼女らがこれまで学んだことを、保育者として少しでも日常の園生活の中で子どもたちに伝えていくことができるようにと祈りながら、今年も10名のゼミ生を送りだした。
 
私の宣教活動
2017-04-01
私の宣教活動について (シスターI)

 宣教の目的と手段は、音楽を通して、救い主イエス・キリストを伝えることである。    
具体的にはカトリック教会固有の聖歌、グレゴリオ聖歌で、月に二度の集まりでは、その音の流れとラテン語テキストとの一致を示す、いわゆる古(こ)ネウマと称するものの指示に基づいて歌うことである。                           
では古ネウマとは何かというと、ネウマ(記号)の古い形で、写本に記されたテキストの流れを示すために、その上に記録されているのであるが、単音符から集合音符あるいはその多様な組み合わせに至るまで、実に詳しく聖歌の心を伝える記号のことである。単にネウマというと記号にすぎないが、これにギリシヤ文字のプ(霊、気、風)をつけてプネウマとすると作曲した人の心を表すことになり、意味がいっそう深められる。
 勉強会に集まるメンバーは25名で、その大部分は旧短大音楽科の卒業生で、子育てが終わったから、音楽の本質をもう一度学びたいと言ってやって来てくれている。
 ここで深く思い起こすのは、恩師・K先生の存在である。先生は東京芸術大学音楽部の名誉教授、シスター江角の願いによって旧短期大学音楽科の第一代科長となられ、音楽と信仰の両輪を以って生きることを、身を以って教え込んでくださったのである。 神に感謝!
 
世界平和を願って
2017-03-01
世界平和を願って(ブラジル修道院 シスターA)

 ブラジルに派遣されて26年になる。クリチバ市は人口が増え、修道院の周りには高いビルが次から次へと建設されている。ブラジル経済が悪化し、失業者が多く路上生活者が増えてきた。ブラジルの北から、また田舎から都会へ、外国人も仕事を求めてやってくる。特にハイチ、アルゼンチン、チリなど、昨年は「いつくしみの特別聖年」でクリチバ教区も力を入れ、各教会、修道会がいつくしみの実践に励んだ。カルメル会修道院と信徒で毛布6千枚を購入し、それを貧しい家庭、路上生活者に配付した。
 またカトリック教会の司祭とプロテスタントの牧師でグループをつくり、食糧、寝る場所を提供、貧しい人々への声を聴くために出かけて行って援助している。一般の人たちもパンや食料を購入して、路上生活者にあげているのを見かける。ブラジルのニュースは悪いことばかり放送されているが、ブラジル人は単純で明るい、話好きで、すぐ友だちになれる。バスに乗るとすぐに席を譲ってくださる。身体に障がい者への配慮、目の不自由な方へ手を貸すなど、身近で心温まる思いを感じることが度々ある。
 職員のなかにハイチから働きに来た一人のお母さんがいる。家族をハイチに残し、仕送りをして頑張っている。昨年、純心幼稚園では110人の園児がいた。日系人、ブラジル人の子どもたちがほとんどであるが、その中に日本、インド、レバノン、中国、シリアの子どもたちも交じっている。各家庭ではそれぞれの国の言葉が話されている。言語、文化が違っていても子ども同士ポルトガル語を話し、お互いに助け合い、思いやっている姿を見るのはとても微笑ましい。この小さな輪が家庭、社会に広がり、世界平和につながるよう願いたい。
 
神さまの家
2017-01-01
神さまの家(佐世保修道院)
 
 今、教会と幼稚園の奉仕の場で、私が感じていることや様子などを少しだけお伝えします。
 
神さまの家 ―
夜明けの空に暁の星
その輝きの下で一日が始まる
薄暗く寒い道を3姉妹で歩く
しかしその心は明るく温かい
なぜなら主が待つ教会で
信徒とともに祈るから
ここは神の家 神の家族
 
司祭は招くみ言葉へ
神の思いが司祭を通して語られる
昨日も 今日も また明日も
主のみ言葉とご聖体
ミサで味わう神の愛 
ここは神の家 神の家族
 
司祭は牧者 一日中
羊の群れの世話をする 
牧者の香り漂わせ
あちらに病み伏す人あれば
こちらに憂える人あれば
時を移さず動き出す
「主はともにいる」「愛されている」
「だいじょうぶ・・・」
いつでも どこでも 誰にでも 司祭が口にするのは同じ言(こと)
人は癒され慰められて強くなる
神への信仰 胸に秘め
ここは神の家 神の家族
 
子羊(信徒)は 持てる力 それぞれに
ひろば
あれやこれやと分かち合う
ある人、勇気を出して挨拶を
ある人、コーヒー「ハイ、どうぞ!」
ある人、小麦粉かきまぜて
幼い子どもにクッキーを
配って広がる笑顔の輪
ここは神の家 神の家族
 
ある人は 
老いて手に持つロザリオと
黒ずむ祈祷書めくりつつ
神の家族の祈り込め
人目につかない愛の奉仕を
ここは神の家 神の家族
 
「おはよう」「元気?」「遊ぼうよ」
イエスのみ心伝えつつ
86年の歩み持つ
ここは聖心幼稚園 マリアの畑 
神の庭
 
多くの姉妹 卒園児
神の恵みを歩み来て
振り返れば いつも支えあり
聖母の畑であればこそ
今もいつも 最後まで 
お守りください 母マリア 
 
私の宣教
2016-12-01
私の宣教(小野田修道院)
  
 私は、所属する北若山教会の教会学校で、小さな宣教のお手伝いをしています。そのことを少しお話したいと思います。この3月までは土曜学校でしたが、日曜日のミサ後が参加しやすいとの理由から「教会学校」と名称を変えて、毎月2回、第1・第3主日のミサ後に行なっております。指導者は現在は、はからずも参加する子どもたちの母親4名が担当しています。
 長年、土曜学校の責任者としてご奉仕くださった方が、そろそろ若い信者さんにバトンタッチして、若い力と発想で教会学校を盛り上げていただき、それがさらに希望に溢れる活気ある教会活動につながることを考え、お譲りしたのでした。担当のお母様は教会学校のある日は、ミサへの参加も積極的で心のはずみを感じます。
 参加する子どもは現在13名。他の教会学校では考えられないと思いますが、何と母親に抱かれている1歳児も、一員として名簿に記名されています。
 組み分けは、①赤ちゃん組(1・2歳)3名 ②幼児組(3~5歳)3名 ③初聖体準備組(小1・2)3名 ④学童組(小3以上)4名
 赤ちゃん組はもっぱら遊び。泣いたり笑ったり、時にはつかみ合ったり、おもちゃを取り合ったり、とてもにぎやかなひと時。ここ北若山教会は、子どもが生まれると、教会学校の人数が増えたと大歓迎されています。
 私は、初聖体準備組をいただいております。少人数だけに、お話しは静かに上手に聴いてくれます。日曜日のミサ後なので、集中は長くは続きません。子どもの状態に合わせて早めに切りあげ、各自のノートにその日の話のポイントをメモさせ、まとめを話して終わっています。日によっては、なぞなぞのゲームや折紙を折って楽しむこともしています。
 子どもたちが教会学校によろこんで参加し、どんな時にも神さまから愛され、大切にされていることのよろこびを少しでも感じて生きていけるよう、教会学校のお手伝いを大切にしていきたいとの思いで、今を過ごしております。
 
聖書深読法
2016-11-01
聖書深読法(西町修道院)
 
「何を歌いましょうか… 歌える歌がいいですね」  手作りの聖歌集の中から探します。「30頁の歌はどうでしょうか。」「歌えそうですね」
「聖書の箇所はヨハネ19章25節から27節までです。」メモ用紙が渡されます。「では 始めましょう。」祈りと歌で始まります。
 毎月第3土曜日、浦上の純心宣教センターでの聖書を中心とした祈りのひとときです。10時30分より約1時間、カルメル会の奥村神父様による聖書深読法の最初のほんの一部をしています。
 指示された福音書のなかの数節をゆっくりと読み、今、自分に語られる主のみ言葉を深く味わい、分かち合っていくのです。指定された聖書の箇所を参加者が 1節ずつ、順にゆっくり朗読します。読み終わったら、その箇所を全部ノートに書き写しながら静かに黙想し、間を置きます。配付されたメモ用紙に感激した所、心に触れた所など を2、3か所マークし、全体の印象を短い言葉で記し、提出します。一覧表に記入しコピーして配付。分かち合いに入ります。分かち合いでは、何故マークしたのか、自分が感じたこと、思ったこと等を話し、他の人が話している時は耳を傾け聞くことに徹します。批評や討論等は致しません。分かち合いが済んでからの「解読」は、神父様の著書でその時に読んだ聖書の箇所に関連している部分を読みます。しばらく心の中で思いめぐらし、共同祈願があれば致します。歌又は祈りで終わります。
 その後、お茶をいただき、来月の予定日を確認して帰ります。聖書深読法について、カルメル会の九里神父様は(分かち合いの手引き)で次のように述べておられます。「『私の名のもとに二、三人集まるところに私はいる』共に祈りながら、み言葉に耳を傾ける時、聖霊が働くのでしょう。ピクニックでお弁当をひろげているような感じです」と。
 分かち合いでは神様の大きな手に包まれて、楽な気持で感じたままを話します。他者に心を開き、分かち合う交わりのなかで、何かが心に響きます。他者に働かれる神様の恵みといつくしみに、み言葉のひとことに心をうたれます。それが水の雫となり、落ちて心と身体にしみてくるように感じられるのは私だけではないようです。
 参加する度に驚きます(神様は不思議なわざを行われると。) 「神様、あなたがなさることです。すべてをお任せ致します」そのような気持ちで帰途につきます。聖書を読みながらの祈りのひととき どなたでも、どうぞいらしてください。
 
わたしの宣教
2016-10-01
わたしの宣教 (神崎修道院)

 私は初誓願後、ほとんど教会附属の支部修道院に派遣され、教会奉仕と教会学校に携わってまいりました。教会によっては様々ですが、子どもたちは皆、神さまの話に興味を持っています。下手な話でもよく準備すれば、それだけよく聞いてくれます。またこれまでの大人の要理勉強では、5件ほどしかありませんが、3名は受洗されました。その中の一人は純心聖母会員、故シスターYの妹S子さん(85歳)で、いま、介護施設に入所しておられます。  
 S子さんは、鹿児島修道院でのY姉のよき臨終と純心聖母会の姉妹方の惜しみない介護に感銘を受け、受洗の望みを持たれたようです。 
 これまでは度々訪問し、洗礼後のアフターケアを兼ね、お見舞いをしておりました。今は、少し距離が遠くなりましたが、できるだけお見舞いしたいと思っています。先日伺った折にはリュウマチの痛みがあるにもかかわらず、置かれた境遇に甘んじ、Y姉を偲びながら純心聖母会に感謝しておられました。
 佐世保修道院にいました昨年度は、月一度のプロテスタントとカトリックの集りである朝祷会に1年間、出席いたしました。牧師、カトリック司祭、両派の信徒20名ほどが集まり、各教会の代表者による聖書の個所の奨励、または体験談などをもとに共同祈願を通し、分かち合いが行われます。初めは緊張しましたが。会員の中に溶け込み、良い体験をさせていただきました。会合などに出向いて自分を開いていくことも私の宣教を助けてくれると思います。
 今、私は神崎修道院で、改築された新しい建物に住まわせていただいています。毎朝、5名の姉妹が2つの教会に分かれてミサでの典礼奉仕を行ない、土曜日には2つの教会学校を受け持っています。仮の宿(しとね修道院)からの移動は、荷物の手配、運送、後片付けなど大変でしたが、本部の方々と姉妹たちの協力一致でひと通り荷物を収めることができました。
 何事においても一人では何もできません。これまでの私の宣教も姉妹たちの理解と協力によって任務を果たすことができるということを実感しています。
 私の宣教といっても、この程度のことですが、これからの実情にあわせ、与えられた任務を精一杯果たしていけたらと願っています。いつも神様が守り導いてくださいますように。
 
 
神様っていいね!
2016-09-01
神様っていいね! (鹿児島修道院)

 「神さまっていいね!」「聖書っておもしろい!」こんな言葉が生徒の口から飛び出ると心の中で思わずガッツポーズをとります。宗教の授業を本格的に始めて3年。試行錯誤の毎日。年間を通してある宗教行事と学校行事に時には追われ、ともすれば授業研究に割ける時間が少なくなり、ため息をつくこともあります。やるべきことの優先順位は?誰のために何のためにやろうとしていることなのか?授業で伝えなければならないことは?など自問自答の繰り返しです。それでも何とか授業を終えた後に「神さまって」の言葉を聞くと本当に嬉しくなります。そしてこの言葉は、創世記1・2章を勉強したあとによく聞かれることに最近気づきました。
「神は、ご自分にかたどって人を創造された。…神は、お造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めてよかった。」(創1・27~31)
 人とは、神さま自らが土をとり、一人ひとりを大切にご自分で創られ、そしてそれをご覧になって「極めて良かった。」と自慢げに話された存在。それがあなた自身であること。それを実感してもらうために事前に記憶にないころの私、つまり生まれたころから3歳くらいまで自分がどんな子どもだったかを親、祖父母、叔父叔母などできるだけたくさん対面で聞いてくるように宿題を出します。しかも自分が「へぇ、いいな」と思ったことだけを記録する宿題です。「よく泣く子どもだった」「お気に入りのおもちゃを離さなくてね」など、懐かしむような愛おしむような表情で話してくださることに耳を傾けてもらいます。何もできなくても、どんなことをしてもかわいくてしょうがない。そんな自分があったことを知ってほしいのです。神様もそんな思いであなたを創り、今のあなたを見守っている。聖書にふれ自分の過去にふれ、今生きる自分自身が存在するだけで価値があることをあらためて感じてほしい。そしてそれを感じた瞬間、生徒の表情が変わります。かけがえのないたった一人の存在である自分を実感できたそのときなのです。
 そこで、「そんな自分に言ってはいけない言葉は何だろう?」と質問することにしています。大体は、「死にたい」「駄目な自分」など。答えは「どうせ私なんて。どうでもいい」と投げやりな言葉です。弱い自分や情けない自分、やり場のない怒り、理不尽なできごとに出会うと自分に言ってしまうのです。「どうせ私なんて」と自分で自分の価値を決めてしまいます。でも本当は違うはずです。自分の価値は、自分が定めるものでなく、命を与えて下さった方がすばらしいと言ってくださったのだからこそ信じて生きることが大切なはずです。
 これからも生徒たちと一緒に聖書を読みながら「神様っていいね。」と言える時をたくさん作り、ともに神さまの思いを感じたいと思っています。
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