純心聖母会は、長崎大司教区に本部を置く聖母マリアの汚れなきみ心に捧げられた教育と社会福祉の使徒的活動を行う聖座法の女子修道会です。

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純心聖母会
〒852-8142
長崎県長崎市三ツ山町415
TEL.095-848-2241
FAX.095-843-7570

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福 音 宣 教 の 小 道

 

★神様のひろば★

★神様のひろば★
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わたしの宣教
2016-10-01
わたしの宣教 (神崎修道院)

 私は初誓願後、ほとんど教会附属の支部修道院に派遣され、教会奉仕と教会学校に携わってまいりました。教会によっては様々ですが、子どもたちは皆、神さまの話に興味を持っています。下手な話でもよく準備すれば、それだけよく聞いてくれます。またこれまでの大人の要理勉強では、5件ほどしかありませんが、3名は受洗されました。その中の一人は純心聖母会員、故シスターYの妹S子さん(85歳)で、いま、介護施設に入所しておられます。  
 S子さんは、鹿児島修道院でのY姉のよき臨終と純心聖母会の姉妹方の惜しみない介護に感銘を受け、受洗の望みを持たれたようです。 
 これまでは度々訪問し、洗礼後のアフターケアを兼ね、お見舞いをしておりました。今は、少し距離が遠くなりましたが、できるだけお見舞いしたいと思っています。先日伺った折にはリュウマチの痛みがあるにもかかわらず、置かれた境遇に甘んじ、Y姉を偲びながら純心聖母会に感謝しておられました。
 佐世保修道院にいました昨年度は、月一度のプロテスタントとカトリックの集りである朝祷会に1年間、出席いたしました。牧師、カトリック司祭、両派の信徒20名ほどが集まり、各教会の代表者による聖書の個所の奨励、または体験談などをもとに共同祈願を通し、分かち合いが行われます。初めは緊張しましたが。会員の中に溶け込み、良い体験をさせていただきました。会合などに出向いて自分を開いていくことも私の宣教を助けてくれると思います。
 今、私は神崎修道院で、改築された新しい建物に住まわせていただいています。毎朝、5名の姉妹が2つの教会に分かれてミサでの典礼奉仕を行ない、土曜日には2つの教会学校を受け持っています。仮の宿(しとね修道院)からの移動は、荷物の手配、運送、後片付けなど大変でしたが、本部の方々と姉妹たちの協力一致でひと通り荷物を収めることができました。
 何事においても一人では何もできません。これまでの私の宣教も姉妹たちの理解と協力によって任務を果たすことができるということを実感しています。
 私の宣教といっても、この程度のことですが、これからの実情にあわせ、与えられた任務を精一杯果たしていけたらと願っています。いつも神様が守り導いてくださいますように。
 
 
神様っていいね!
2016-09-01
神様っていいね! (鹿児島修道院)

 「神さまっていいね!」「聖書っておもしろい!」こんな言葉が生徒の口から飛び出ると心の中で思わずガッツポーズをとります。宗教の授業を本格的に始めて3年。試行錯誤の毎日。年間を通してある宗教行事と学校行事に時には追われ、ともすれば授業研究に割ける時間が少なくなり、ため息をつくこともあります。やるべきことの優先順位は?誰のために何のためにやろうとしていることなのか?授業で伝えなければならないことは?など自問自答の繰り返しです。それでも何とか授業を終えた後に「神さまって」の言葉を聞くと本当に嬉しくなります。そしてこの言葉は、創世記1・2章を勉強したあとによく聞かれることに最近気づきました。
「神は、ご自分にかたどって人を創造された。…神は、お造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めてよかった。」(創1・27~31)
 人とは、神さま自らが土をとり、一人ひとりを大切にご自分で創られ、そしてそれをご覧になって「極めて良かった。」と自慢げに話された存在。それがあなた自身であること。それを実感してもらうために事前に記憶にないころの私、つまり生まれたころから3歳くらいまで自分がどんな子どもだったかを親、祖父母、叔父叔母などできるだけたくさん対面で聞いてくるように宿題を出します。しかも自分が「へぇ、いいな」と思ったことだけを記録する宿題です。「よく泣く子どもだった」「お気に入りのおもちゃを離さなくてね」など、懐かしむような愛おしむような表情で話してくださることに耳を傾けてもらいます。何もできなくても、どんなことをしてもかわいくてしょうがない。そんな自分があったことを知ってほしいのです。神様もそんな思いであなたを創り、今のあなたを見守っている。聖書にふれ自分の過去にふれ、今生きる自分自身が存在するだけで価値があることをあらためて感じてほしい。そしてそれを感じた瞬間、生徒の表情が変わります。かけがえのないたった一人の存在である自分を実感できたそのときなのです。
 そこで、「そんな自分に言ってはいけない言葉は何だろう?」と質問することにしています。大体は、「死にたい」「駄目な自分」など。答えは「どうせ私なんて。どうでもいい」と投げやりな言葉です。弱い自分や情けない自分、やり場のない怒り、理不尽なできごとに出会うと自分に言ってしまうのです。「どうせ私なんて」と自分で自分の価値を決めてしまいます。でも本当は違うはずです。自分の価値は、自分が定めるものでなく、命を与えて下さった方がすばらしいと言ってくださったのだからこそ信じて生きることが大切なはずです。
 これからも生徒たちと一緒に聖書を読みながら「神様っていいね。」と言える時をたくさん作り、ともに神さまの思いを感じたいと思っています。
 
食べ物になったイエスさま
2016-07-01
食べ物になったイエスさま (川棚修道院)
    「あっ、食べた」「本当に食べたね」「うん!」と、あちらこちらからヒソヒソ。卒園を前にした卒園感謝ミサのなかでのことである。本園では、卒園児とその保護者が教会に集い、感謝ミサにともに与っている。ミサに参加するにあたって、卒園児を対象にモンテッソーリ―宗教教材の「良い羊飼い」から、ミサでの移行を提供している。一匹一匹の名前を呼ぶ羊飼いや見つけた羊、命を捨てる羊飼いについては年中児の頃から宗教プログラムの中ですでに提供を受けており、良い羊飼いと羊、否自分との関係についてはじっくり味わっていたことでもあった。
 「良い羊飼い」からミサへの移行の提供は、良い羊飼いが羊たちの名前を呼んで集められる特別な場所、すなわち教会に集まっているところから始まる。良い羊飼いに呼ばれた羊たちは、小さな祭壇を囲んで集まっているが、人間の姿の人形に置き換えられていく。そして羊の中で特別な働きをする司祭の人形が置かれる。祭壇の上には羊飼いの姿ではなく、パンとぶどう酒が捧げられるという教具の提供である。
 羊たちのために命を捨て、食べ物としてご自分を渡された良い羊飼いの姿を、教具を通して視覚・感覚的に感じ取っていた子どもたちが、実際、本当のミサの中で園長先生やシスターたちがパン・ご聖体を拝領した時の驚きと感動は大きく、冒頭に記した子どもの声となった。ミサが終わって、教会から出てきて開口一番、「先生、あれ本物だったんだね」「本当にイエスさまは食べ物になったんだ」などと感激のことばが続いた。教具を通して感じ取っていた良い羊飼いと自分たちとの関係がミサに与り、本物の存在を実感した卒園前の子どもたちだった。
 幼児教育の現場において、子どもたちや保護者、地域の人たちへの福音宣教のチャンスは多く与えられている。例えば、日々の温かい関わりはもちろん、通常の保育の中でのお祈りやお話、宗教教育プログラムによる提供、誕生会や聖母行列、七五三、クリスマス会、二十六聖人殉教地巡礼に卒園感謝ミサなどの宗教行事を通してである。これらの恵みの機会を活かし、子どもたちが神様との出会いをより多く体験できるよう、福音宣教者としての歩みを深めていけたらと願っている。
 
分かち合い
2016-06-01
諫早修道院
昨年、幼稚園の職員に、①幼稚園の歴史、②三木パウロ像(先生方の要望)、③無原罪の聖母像、④マリアさまを園児にどのように伝えたらよいかというテーマで話す機会をいただき、5回に分けて話をした。今回はその分かち合いである。
 ①幼稚園は、長崎教区立純心幼稚園として、1949年に諫早市最初の幼児教育施設として純心聖母会が要請を受け、開園。会の創立者早坂司教が諫早教会を聖パウロ三木聖堂と命名された。これらの話や数学者であったSr江角が50年ほど前に開始された年金制度について、「この制度では、将来あなたたちの年金生活はできないのよ」と話していたことを話すと、先生方は喜んだり驚いたりしていた。『いのちの道しるべ』から、「愛の業―マリア様いやなことは私がよろこんで」を読み、その精神を少しでも汲み取ってほしいと思った。
 ②幼稚園の隣の教会の入り口に三木パウロ像が、正面玄関に無原罪の聖母像が建てられている。この教会の広場を園バスの登降園の場としているので、マリア様がいつも見守ってくださっている感じがする。三木パウロ像も親しみがあり、日本26聖人殉教者を始め、日本の教会史についても説明した。
 ③無原罪の聖母については、質問者にだけ、夏休み中にルルド・ファチマ・グァダルッぺの聖母出現のことを絵葉書や本を使って説明した。
 ④マリア様のことについては聖書から20か所のリストを作り、イエスの系図とカナの婚宴を選んで話したが、聖書を初めて開く人もおられ、どの程度理解されたか疑問である。イエスの誕生を選べばよかったと反省している。カナの婚宴でのマリア様の「なんでもあの人の言うとおりにしなさい」という言葉は、いつも大切にしてほしい言葉だと願っている。
 幼子イエス様を大切に育てられたマリア様のように、いつもだれにでも笑顔と細やかな心遣いで、惜しみない奉仕をしておられる先生方の姿を見るたびに、園児たちは言葉でなく、行いを見て、マリア様を感じ取っているのではないかと思うからだ。私のつたない話を聞いてくださり、本当に深く感謝している。
 
種を蒔く人が種蒔きに出て行った
2016-05-01
種を蒔く人が種蒔きに出て行った(マルコ4・3)  八王子修道院

 「初聖体のための勉強会を」とお願いされ、八王子教会学校の勉強会が始まりました。
教会学校のテーマは、「イエスさまのこころを知っていく」ことでした。私の話にも、子どもたち一人ひとりは、目を輝かせ耳を傾けてくれました。子どもたちの心は蒔かれた「種」を受け入れ、実を結ばせる良い土地です。子どもたちの人生が豊かな恵みに支えられ、実を結ぶよう聖霊に委ねながら祈ってきた勉強会でした。一人ひとりの種を成長させる恵みを与えてくださるのはイエス様ご自身だからです。
 私は、昨年の秋にスイートピーの種を蒔きました。ほとんど手間をかけなくても、少しの水と日光で間もなく小さな芽が土の中から出て来るのが見られました。寒い冬にも雪にも負けず、少しずつしっかり伸びてきています。そこには、神の神秘が満ちていると思いました。種はほぼひとりでに芽を出して成長し続けます。それを見ることは、心を和ませ、楽しませてくれます。
 教会学校において、私の仕事はできる限り多くの種を蒔くことです。成長させてくださるのはイエス様であると信じているからです。
 初聖体の勉強会では、「よい羊飼い」のたとえ話をしました。よい羊飼いはイエス様で、羊は私たちであるということを知ること。イエス様は、私たちが群れからはずれると、見つけだすまで探してくださることをねらいとしています。子どもたちの心にどれだけ響いたのか神さまのみが知るのですが、教会学校に喜んでくる子どもたちの様子を見ると嬉しくなり、励まされます。これからも、私の手と口を通して神さまが働いてくださいますように祈り続けたいと思います。
 主よ、子どもたちをイエス様のところに引き寄せる種を蒔く人になれるよう、私を教え導いてください。
 
育まれる信仰
2016-04-01

育まれる信仰 (マダレナ修道院)

 時の流れの中で、いつの間にか「シスター」から「シスー」と呼ばれ、その父母も若くなり、子どもにつられ、「シスー」と呼ぶ今日このごろの三ツ山教会の教会学校です。
 カテキスタとして奉仕させていただいて?年。60人ほどいた小学生は、信者9人、両親のどちらかが信者で、まだ洗礼をうけていない子ども3人の12人。少人数でさぞかしやりやすいと思われるでしょうが、現実は悪戦苦闘です。まず、出席率を改善。子どもたちをとりまく環境に合わせて、週2回の教会学校にしました。おかげで出席率90%をキープできています。次に学年の違う子どもたちの要理。部屋を分けて、間を行ったり来たりの私。少々落ち着かない雰囲気でもあり、時には迷走する子もいます。が、「神さま大好き」はみんな同じ。これがあれば大丈夫と自身にいいきかせながらの要理です。
 迫害の中で信仰を守り通した先祖を持つ子どもたちは、祖父母や両親をとおして母親の胎にいるときから信仰の遺産を受け継いでいます。どうしようもないと思うとき、いざとなったら信仰の遺産が力を発揮します。
 最近、うれしいことがありました。洗礼はまだですが、子どもの洗礼を望む母親が要理に通わせ「ミサ」にも一緒に参加しているA君が、「僕も○○君と侍者がしたいので洗礼を受けたい」と、自ら両親に言ったそうです。彼のおばあさんは、孫たちの受洗を願いつつ、毎朝「ミサ」に参加し、祈りをささげておられます。神様は、その願いをともに学ぶ仲間をとおして適えようとしておられるようです。いろいろな仕方で導かれる神のわざに感謝すると同時に、実現するように後押ししたいと思います。
 私自身が、子どものうちに働かれる神の愛の中で子どもたちに力をもらい、成長させてもらう日々に感謝の祈りをささげつつ、育まれている信仰の遺産を大切に伝え続けていきたいと思うこのごろです。

 
イエスは私の師
2016-03-01
イエスは私の師 (ブラジル クリチバ修道院)

 昨年から私は中・高生のグループを受け持ち、堅信の準備をしている。テキストはクリチバ大司教区出版の教本を集会の手順に従って使用している。ブラジルの教会はカテケーゼの教えを伝えるだけでなく、キリストに従うことをも強調している。そんな中で、私はカテキスタとして彼らにキリストへの愛に目覚めさせ、導く使命を実感している。テキストとともに聖書を使って黙想し、皆で分かち合い、感想を述べたりすることによって、聖霊の働きを感じている。私自身も信仰と希望の内に成長させていただいていることを感謝している。
 彼らはカテケーゼには熱心であるが、家族とともにミサや教会の行事に参加することが難しい。彼らを教会に行かせるようにするのがこれからの私の課題である。イエスは私にとって偉大な師であり、また日々の生活の中でもいつも導いて下さる。その体験のひとつを紹介する。ある日曜日のミサ中に、同性愛者が隣の席に座り、私に向かって「シスター祝福を下さい、あなたはマリア様の代表者ですから」といわれた。私は、「神様があなたを祝福して下さいますように」と答えた。事実、私は彼らのような人々に慣れていなくて、むしろ不愉快に感じていた。しかし、主の祈りのとき「悪からお救い下さい」の後に、彼は続けて「飢え、冷淡、偏見からお救い下さい」と言葉に出して祈られた。その時に、フランシスコ教皇様のことばを思い出した。「この聖年の間に経験すべきなのは、自分とまったく異なる周縁での生活を送るすべての人に心を開くことです」。(大勅書15)
 この出来事を通して、自身の奉献者としての使命を意識させられ、神様の愛と慈しみを全ての人々に差別せずに伝えることを気づかせていただいた。マリア様、小さな私を支えてください。
 
特別なことではなく、ただの日常ですが
2016-01-01
特別なことではなく、ただの日常ですが… (浦上修道院) 
   
中学側職員室の出入り口から元気な声が響く。 
 「シスタ〜♪」(音声で届けられないのが残念です。)
始めは自分の名が職員室に響き渡るのが恥ずかしかったし、良いことをするためにひたすらプッシュしてくる彼女に苦笑いしながら、ちょっとした仕事を一緒にやって過ごしているうちに、先生方も慣れて来て、「あの子はシスターに任せておけば大丈夫!」との声も聞こえるようになった。
 宗教の教科担当、小羊会の世話役の仕事はやりがいがある。しかし、何か特別な集いをやろうと意気込んでも、現実はなかなかついて来ない。呼んでも集まらず、がっかりすることが多い。無関心ではなく、ただ、生徒たち自身が忙し過ぎてこっちに来れないでいる、そんな気もするのである。こちら教師側も意外と忙しかったりする。多くを期待してはいけないことを学び、小さな出会いと関わりを大切にしているこのごろである。実は、この原稿を書いている今日の放課後、校内クリスマス会の準備のために小羊会の数名が手伝ってくれた。私はあれこれ仕事を頼み、彼女たちは快く引き受けてくれ、スムーズに事が進んだ。終わりに「ありがとうございました!」で別れたが、こんなちょっとしたことを大切にしていくことだと思う。
 4月、小羊会にも新入生を迎える。自分の所属教会さえ知らず、「初聖体」をしたのかどうかも記憶にないというところからスタートする。中学の時に「堅信」の勉強から脱落してそのまま過ごしている生徒たちにやんわり声をかけ、時間をかけて関わりを持つ。様々な理由で教会に行っていない生徒がいるので、声かけは難しいが、この時ばかりは広く、温かい心で接するように心がけ、今でなくても近く、あるいは遠い将来でも教会につながっていくことを期待している。そして、個人的にお付き合いが深まると、「シスターにならない?」と声をかけることも忘れていない。それも一度や二度ではなく、繰り返し・・・。
 
ひとつの出会いから
2015-12-01

ひとつの出会いから (鹿児島修道院)

Sr.Kの体験より
 あるご家族との出会いがありました。お子様は男の子一人。日曜のミサ後、お母様とよくこんな話をしていました。「お母様、子どもさんがもし『神父様になりたい』と言ったら、どうします」と言ったら、「本人が行くといえばですけど、まさか、うちの子は、ですよ。」「でも神様は一人っ子が大好きだそうですよ。」等々。ところが、そのお母様は今年3月に司祭叙階の大きな恵みをいただかれたそうです。

Sr.Yの体験より
 ある幼稚園で父親が要理の勉強を始めて受洗、数年かけて家族8名が受洗なさり、お祝いとして絵本『アシジのフランシスコ』(崎浜神父著、聖母の騎士校長)を贈呈したところ、長男が家族に読み聞かせ、その後、「お父さん、僕もこの人のようになりたい」と、現在ある修道会神学校の中学生になっているそうです。

Sr.Mの体験より
 5・6年生を担当していた時、2・3人の男子があまりよく聞いてくれませんでした。皆、卒業して中学校に入学し、そこで発表会があった時、教会学校で勉強したこと(救いの歴史について)を全校生徒の前で堂々と発表している場面を保護者からビデオで見せていただき、感動しました。教会学校の時は、聞いていないようだったのに、聞いていたんだと感心しました。子どもたちのために本当によく準備して教会学校に臨んだので、準備することで子どもたちにも伝わるんだと実感なさったそうです。

以上は、今年金祝を迎えられた姉妹方の宣教の実りを紹介させていただきました。

 
子どもたちとともに
2015-11-01
子どもたちとともに (神崎修道院)
  
 自然に恵まれた小佐々町神崎、保育園から約2キロ西方に本渡最西端の碑がある。園では月に一回の弁当の日を利用して、最西端公園にでかけることもある。
 先日、公園から無限に広がる海を眺めていた5歳のHちゃんが「先生、この海どこまで続くの?」また「お花っていつまでもきれいなままでいたいよね。どうして枯れるの?」と質問。一緒に海を眺めながら話をすると、「ああそうだね。本当にそうだね!」と納得。Hちゃんはそう言いながらも、ややしばらく海を眺めていた。自然界を通して神様の偉大さを自分なりに感じている様子だった。その数日後、5歳のRちゃんは保育園から帰宅すると突然、「お母さん、私もお友だちと初聖体の勉強がしたい」と言いだし、両親を驚かせた(母親のみカトリック)。父親が、本人が望むことだからと許し、次の日に両親は洗礼のお願いに教会に行かれた。洗礼の秘跡をいただいたRちゃんは晴々とした表情で初聖体の勉強に参加している。この2人の園児の様子を見ながら、イエス様がいつもともに働いてくださっていることを実感した。
 一方、教会学校では元気いっぱいの3・4年生(31名)を担当している。週1回の要理にはほとんど出席しているが、主日・祝祭日のミサには参加が少なく、家庭で祈ることを知らない子どもたちも大勢いる。信仰は神様からいただいた恵みであり、その信仰をよく生きるためにどうすればいいのか、子どもたちとともに考え、ともに学び分かち合いをし、個人的に声かけをするなど努力している。また教会共同体一人ひとりが神様の思いに気づき、「父の家に帰ろう」を実践できるよう、信徒の方々と毎朝シノドスの実りを祈りつつ、奉献生活の年を過ごしている。
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