純心聖母会は、長崎大司教区に本部を置く聖母マリアの汚れなきみ心に捧げられた教育と社会福祉の使徒的活動を行う聖座法の女子修道会です。

 

私の信仰を育んだ地

   
世界平和記念聖堂(広島市)
世界平和記念聖堂(広島市中区幟町)  シスターM

 広島は、1945年8月6日に投下された原子爆弾によって焦土と化し、爆心地から僅か1.2㎞の距離であった幟町天主公教会も、爆風で倒壊の後類焼しました。被爆した主任司祭フーゴ・ラサ―ル神父(ドイツ人、1948年に帰化し愛宮真備と改名)は、1946年9月にイエズス会の総会のために訪れたローマで、教皇ピオ十二世に広島の惨状を報告、聖堂建設構想に対する特別の祝福を受け、各国に支援を求めました。
 1950年8月6日に定礎式が行われ、1954年8月6日に竣工、献堂された広島司教区の司教座聖堂は、終戦記念日である8月15日を祝日とする「被昇天の聖母」を保護者と仰いでいます。聖堂(村野藤吾設計)は、屋根23m、ドーム28m、鐘塔45m(十字架を含めると56?4m)、地上3階、地下1階の三廊式バシリカ形式で、2006年7月5日に広島平和記念資料館(丹下健三設計)と共に国指定重要文化財に指定されました。外壁は、被爆した広島の川砂を使って現場で作られた20数万個の灰色のコンクリートレンガを積んで作られ、内陣ドームの上には、地球儀の上に乗った鳳凰(フェニックス)が復活の象徴として置かれています。この鳳凰は、死と灰の中から復活した広島を表すものでもあります。世界平和記念聖堂は、世界中から贈られた献金と寄贈品によってできましたが、献堂当初はステンドグラスの代わりに板ガラスが嵌められているような状況で、最後の高窓のステンドグラスが届いたのは、1962年でした。
 1962年には、ドイツ連邦のアデナウアー首相から贈られた大聖堂正面のモザイク壁画「再臨のキリスト」(高さ13m)も完成しました。毎日曜日、少しずつ出来上がっていく様子を見ていましたが、完成した時の感動は忘れることができません。聖櫃はボン市、聖体拝領台はバイエルン州、洗礼盤はアーヘン市、パイプオルガンはケルン市等、多くはドイツから贈られました。鐘楼の「平和の鐘」もドイツで製作されました。第一の鐘が変ニ音、第二の鐘が変ヘ音、第三の鐘が変ト音、第四の鐘がロ音で、大祝日のミサ前に鳴る特別の旋律を聴くと、その荘厳さに涙が出たものです。寄贈品には銘文が刻まれていますが、ベルギーから贈られた本祭壇には、「平和は犠牲の代償なり 広島市へ ベルギーより」とあります。これまでにも、聖堂の維持保全のために補修工事が行なわれて来ましたが、2016年6月から2019年3月までの予定で進行している耐震補強・保存修理工事は非常に大掛かりなもので、現在、聖堂、鐘塔は全面を覆われ、その全容を見ることができません。内部も、バラ窓も含めた全てのステンドグラスが外され修理されます。
 私は、幼稚園は聖堂横の聖母幼稚園、大学は教会に隣接するエリザベト音楽大学に通いました。大祝日のミサは、音楽大学の学生やオーケストラによる荘厳ミサで、子どもの頃はミサが永遠に終わらないように感じられました。大学時代は、クリスマスには全学生が真夜中に始まるミサでグレゴリオ聖歌を歌い、その後は大学の教室に泊まっていたことが思い出されます。また、パイプオルガンを専攻したので、子ども時代に聴いていた大聖堂のパイプオルガンで練習することは、不思議な感覚でした。
 1981年2月25日には、教皇聖ヨハネ・パウロ二世が聖堂を訪問されましたが、この時、鯉が泳いでいた聖堂正面玄関を囲む池から、警備上の理由で水が抜かれ、今もそのままになっているのがとても残念です。被爆二世である私が入会することになった修道会の本部が、同じく被爆地である長崎にあったことは、神の計らいだったのでしょう。会の使命である教育の場に派遣され、純心女子短期大学、長崎純心大学短期大学部、長崎純心大学と発展していく中で、いつの間にか25年が経ちました。鐘塔2層部分には、正面西側には日本語で、東側にはラテン語で彫り込まれた碑版が埋め込まれています。この「聖堂記」は、ラサール神父の意図、聖堂の役割が凝縮されたものです。
 「此の聖堂は昭和二十年八月六日広島に投下されたる世界最初の原子爆弾の犠牲となりし人々の追憶と慰霊のために、また万国民の友愛と平和のしるしとしてここに建てられたり而して此の聖堂によりて恒に伝へらるべきものは、虚偽に非ずして真実、権力に非ずして正義、憎悪に非ずして慈愛即ち人類に平和を齎す神への道たるべし故に此の聖堂に来り拝するすべての人々は、逝ける犠牲者の永遠の安息と人類相互の恒久の平安とのために祈られんことを昭和二十九年八月六日」
 長崎の地にあって、学生たちの内面に「真実、正義、平和の礎となる慈愛」を求める心を育てることができるよう、より一層励んでいきたいと思います。
 
城山教会(長崎市)
城山教会(長崎市) シスターY

 私の出身教会、城山教会は聖アウグスチノ修道会の司牧小教区です。日本にアウグスチノ会宣教師が来日したのは、1584年で、キリシタン迫害の始りのときでした。長崎には1612年に教会と修道院を建てましたが、後に取り壊され、現在万屋町にサン・アウグスチン教会跡が残されています。1637年までの間に24人の会員が殉教し、その中には大村湾鷹島(時津近くの無人島)で首を切られ処刑されたエルナンド神父様や西坂で殉教した最後の会員とトマス次兵衛神父様がいます。
 迫害時代が去り、1952年再び日本の地にアウグスチノ会宣教師が来日し、1955年に戦後の復興が進んだ浦上教会から分離独立し、城山教会が誕生しました。現教会は二代目の建築で、2000年12月17日に献堂されました。教会内にはキリシタン迫害時代に日本人の信仰の灯火が消えてしまわないようキリストに倣って良き牧者として羊のために命を神に捧げた聖アウグスチノ会の福者、殉教者の額が置かれていますので、教会を訪れた際にはぜひご覧ください。
 日本の厳しいキリシタン迫害時代を耐えた信徒の信仰を支えたのは海外からの宣教師の殉教覚悟の司牧あってのことだと改めて感じさせられます。
 幼いころから同じ宣教精神に生きておられるアウグスチノ会の神父様方やブラザーから教会で、あるいは隣接する幼稚園、小学・中学校で宗教教育を受けることができたのはとても恵まれた環境であったのだと今さらながら実感し感謝しています。ブラザーの仕える姿はいつも見習うべき姿であるとして、励ましの力をいただいていました。少子高齢化の波はアウグスチノ会にも押し寄せていますが、受け継いだ信仰の遺産はしっかり引き継いで、次に渡していきたいと思っています。
 今思えば失礼な話なのですが、幼い頃は外人の神父様が司祭と思っていたので、浦上教会の日本人の神父様の存在が不思議でした。また幼いころ、神父様に「この中で神父様になりたい人は?」と尋ねられた兄弟とともに手を挙げたわたしに「あなたはシスターね」と丁重にお断りされていたと大きくなって母から聞かされました。その他、兄弟とミサごっこをして神父様の真似をして遊んだこと、小学校の帰り道、友だちと教会に立ち寄ってお祈りしたことなど、幼少期の教会に関する思い出が懐かしく思い出されます。
 城山教会は慰めの聖母に捧げられた教会で、油木の小高い丘の上に慰めの聖母の墓地があります。毎年、死者の月には墓地ミサが挙げられます。信徒の方も高齢化し、階段を登っての墓参りが難しくなってきました。幸い、道路の整備が進んだ現在、西町に抜ける道ができ、車でも別方向から墓地近くまで行けるようになりました。今では駐車場所が問題のようです。
司牧の神父様、ブラザー、信徒の方々の高齢化は城山教会だけの問題ではないと思います。いただいた信仰の遺産は、高齢化することなく与えられたみ旨の場においてみ国がきますようにとの祈りのうちに歩んでいきたいと思い ます。
 
長崎県佐世保(潜竜教会)
長崎県佐世保 (潜竜教会) シスターT
 
位置
 潜竜は、佐々町にあるが、佐々町は、長崎県の北部に位置し、周辺を佐世保市に囲まれ、国見山(佐世保市世知原町)に源流を発する延長21・9㎞に及ぶ佐々川が町の中央を北東から南へ貫流し、これに沿って町が展開している。時代の推移とともに発展を続け、特に大正から昭和にかけての炭鉱全盛期には、人口が2倍に膨れ上がるほどの勢いで急速に発展し、昭和16年1月には町制を施行して県下屈指の町として繁栄した。この潜竜から本会に修道召命をいただいたのは5名がいる。また、司祭として潜竜より竹山徹・明神父、神田より古川武信神父、西木場より山口武神父が潜竜教会の出身者である。

潜竜教会の歴史
 潜竜教会は、戦後盛んになった炭鉱の発展に従って必要となり建てられた。初めは住友鉱業の住宅を会社が提供してくださったので、改築して教会として使用されていたが、1952年に現在の場所に、信徒たちの自らの出費と努力によって聖アウグスチヌスに捧げられた潜竜教会が新しく建立された。資料を見ると、歴史をさかのぼり潜竜ははじめ神崎教会の巡回教会であり、1928年から1952年までは、神崎の主任神父様(片岡吉一・中島万利・鶴田源次郎・熊谷森市・畑田秀補神父様方である)がミサに来てくださっていた。小教区として独立するほどの信徒数となり、1952年より濱崎数雄神父が、1955年より中田武次郎神父が、田平教会助任として潜竜・神田・西木場の3教会を担当して下さった。潜竜教会の主任神父として着任されたのは村岡正晴神父様で、1958年4月より1970年4月まで12年間お世話になった。1954年10月潜竜教会が現在地に竣工され当時、主任司祭濱崎数雄師の要請により1955年4月より、「純心聖母会」の支部修道院が開設3名のシスター方が派遣され、聖母幼稚園が併設された。この3名のシスター方はご健在であるが、1968年3月、純心聖母会が修道院を廃止した。この間、私たちのそれぞれの召命は、主任神父様をはじめ、純心聖母会のシスター方の存在が大きく影響していると思われる。

潜竜教会の特徴
 潜竜は、他の教会と違い広い地域に信者が散在しており、集落として信者がまとまっていないのが特徴である。それぞれの地区にミサをする場所があり、江迎は、江迎署長平野武光氏の署長官舎で、後には馬込善一氏のお力添えで江迎教会ができた。また、神田教会は、新日鉄の社宅であった髙平家を開放してミサをしていただいていた。その後、会社のご好意もあり、隣の家に引っ越して、教会としてそのまま使わせていただくことになった。吉井地区は金子家でミサがあった。遠方から来る信者の為に、主任神父様が定期的に、それぞれの地区を巡回してミサをしてくださった。時々であったが、純心のシスター方も一緒に来られ、祈りをともにしてくださった。交通の便も良くなり、1968年頃までには各地区の巡回教会は閉じられ、潜竜教会に信徒たちは集まってミサに参加していた。ただし、江迎教会は、1958年村岡神父様によって仮聖堂が建てられ、1976年に竣工。翌年1月23日里脇大司教様祝別(主任司祭、古川武信神父)され、2015年4月29日閉堂した(主任司祭、小瀬良明神父)。

召命の恵みをいただいて
 教会学校は、土曜日の午後から、江迎、猪調、潜竜、吉井、神田などから集まって、学年別にシスターに教えていただいた。公教要理の問答式の本の暗記が多かったように思う。皆と遊べるのも楽しみの一つだった。夏休みは、当時神学生だった竹山昭師、古川武信師、御厨の山口武師などのお話しがあったり、聖母の騎士の神父様のお話、映写などあり記憶に残っている。教会活動も、青年会や婦人部が、活発で活気に満ちていた。中田神父様は、いろいろな行事や教会学校の私たちの様子を写した幻燈をしてくださったり、主任神父の村岡神父様は、ミサの前後に聖歌練習があり、テープに吹き込み、自分たちの歌声を聞かせて下さったのは、斬新で印象深く残っている。
 潜竜教会で、私たちの信仰生活を導き育ててくださったのは、神父様や純心のシスター方のおかげであり、私たちが大きくなっても、要理の勉強を通していつもあたたかく声かけをしてくださったり、見守ってくださり、そのお姿を見ながら私たちの召命を育てていただいたと思っている。
 
岡山教会
岡山(岡山教会) シスターH
 
位置と歴史
 岡山は、中国地方の一番東にあり、南は瀬戸内海、西は広島、北は鳥取に隣接しています。歴史的、文化的、産業的には、どちらかと言うと、神戸、大阪、次に瀬戸内海、そして西の広島県の特に福山、尾道などとの関係が深かった所です。地形的には、山間部より平野部が多く、気候も温暖で、米・麦作りを始め、イグサの栽培、果物(特に葡萄と桃)の栽培、繊維工業も盛んで、山陽地方の主要な生産地帯です。
 また岡山は城下町で、市の東部には後楽園があり、貞享元禄年間、藩主池田綱正(33万石)の創設によるもので、市の中心部を流れる旭川を隔てて、岡山城址と対しています。後楽園は、金沢の兼六園、水戸の偕楽園とともに、日本三大名園の一つです。

岡山教会の歴史
1869年(明治2)浦上信徒、備前岡山藩に117名配流
1873年(明治6)帰郷
1880年(明治13)2月 下田町にカトリックミッションの看板を掲げる
          7月 岡山で初めての洗礼5名
          10月 弓之町石丸邸(現教会地)に移転、「天主公教会」看板を掲げる
1887年(明治20)最初の小神学生(浦上豊)長崎小神学校入学
1899年(明治32)岡山天主堂献堂
1923年(大正12)5月 広島教区設立。デーリング大司教、岡山教区長館に入る
1928年(昭和3)8月5日 早坂司教によりロス司教祝聖
1931年(昭和6)渋谷神父、カトリック思想研究所設立、所長となる
1939年(昭和14)ロス司教、広島へ(司教座広島へ)
1941年(昭和16)公教神学女子専修学院創設(伝道婦養成)
1945年(昭和20)戦災により、教会消失
1951年(昭和26)イエズス会と淳心会交代
          クルスベルグ大司教により、新聖堂献堂式
1968年(昭和43)信徒数2千人突破
1980年(昭和50)10月17日 岡山教会100周年記念式典、ヤコボ喜斉聖骨奉迎・像除幕
2001年(平成13)現在の岡山教会献堂
2017年(平成29)現在、県内の教会8、信徒数2400

岡山教会の召命
 岡山教会からも、多くの司祭や修道者が生まれました。信徒たちがヤコブ喜斉の殉教の精神に倣い、神父様方のご指導の下、信仰の高揚と福音宣教、使徒職の充実を計ったこと、創立の当初から今日に至るまで、召命について意を用いてきたことなどが挙げられます。日曜学校、ミサ答え、夏季学校、錬成会、黙想会もしばしば行われて、内省の機会も多く、霊性に目覚めていったこと、女子聖母会等の宣教・奉仕活動も、盛んに行われました。さらに域内の修道会、聖心の布教姉妹会やナミュール・ノートルダム修道女会が福祉事業や教育事業を通して、キリストの証し人となり、神の国の発展に尽くされたことがその実りだと思います。
 昭和58年の統計では、1905年(明治38)、最初の司祭叙階者(浦上豊師)があり、1982年(昭和57)に原田豊巳神父の叙階で、出身司祭は13名を数え、修道士・修道女は生存者だけでも70名を超えています。ちなみに、私が純心に参りました時、私と年齢的にごく近い人たち、7人中6人は修道会にはいりました。

私の教会との関わりと召命
 私は岡山で生まれ、3日後に岡山教会で洗礼を受けました。小学校3年生から岡山ノートルダム修道女会の学園内に住んで、そこから23歳の時、純心聖母会に入会させていただきました。両親が長崎出身の信者で、親戚の中にも聖職者が結構いましたので、小さい時から「男の子は神父様に、女の子はシスターになるといいね」と両親から言われて育ちました。そして中学生のころから、私もシスターになりたいと思うようになり、中3のとき、高校生以上と言われた教会の黙想会に与ったり、毎朝のミサと毎週の日曜学校にも参加していました。そして、高2の時の学校での黙想会(イエズス会司祭の指導)で、修道女になろうと決心致しました。高校卒業までは、家庭にいるようにとの両親の勧めで、長男の弟の大学卒業を待ちました。
 私の身近なシスターたちは、みな立派で規則は率先して守られていましたので、私になれるのだろうかと考えたりしました。
 私の修道会選びは、奉献生活をしようというのに、毎日のように家族に会うような会ではまずいのではないかと考え、伯母のいる純心聖母会にお願いすることに致しました。
 最後に、いただいた奉献生活の中で、私のようなものが教会のために祈り、働かせていただいていることをどんなに感謝しているでしょうか。これからの日々も、恵みに応え、教会のため、日本の人々の救霊、幸せのために祈り、励みたいと思います。
 
参考資料『カトリック岡山教会百年史』
 
熊本(手取教会)
熊本(手取教会) シスターA
 
都会のオアシス手取教会
 熊本市の中心街地、デパートやホテルなど高層ビルに囲まれた中に緑あふれる都会のオアシス、手取教会があります。聖堂内に一歩踏み入れば、そこには外の騒々しさとは別世界の荘厳な雰囲気に包まれた祈りの場があります。
  
 日本の福音宣教は幕末・明治初期に再会されましたが、熊本では、1889年3月(明治22)に、パリ外国宣教会のジャン・マリー・コール神父が熊本を訪問することによって本格的な福音宣教が開始されました。その当時、教区制度はまだ確立されておらず、九州・沖縄は日本南緯使徒座代理区として統治されていました。5年後1894年7月(明治27)、現在の手取教会敷地に熊本県全体の拠点として新しい教会堂が献堂され、現在では熊本県全体で14小教区と3巡回教会を構成するようになりました。
 明治・大正時代の祈りの場であった木造の教会も老朽化と信徒数の増加に伴い1927年(昭和2)に新聖堂建築に着手。設計施工にあたったのは、カトリック教会聖堂建築の第一人者であった鉄川与助氏で、翌年5月に完成し、「日本の聖母」にささげられた教会として献堂されました。1950年(昭和25)に熊本の司牧はパリ外国宣教会から聖コロンバン会へ、2005年(平成17)に福岡教区へ引き継がれ現在に至っています。
 父親の転勤で熊本に越してきた時にはすでに純心聖母会の志願者として親元を離れていましたので、厳密には手取教会出身とは言えません。そんな私と手取教会との絆が深まったのは、2003年(平成15)12月26日から2012年まで10年間行われた召命練成会があったからです。熊本から司祭修道者の召命を育てようとサレジオ会の協力のもと、福岡教区(熊本地区)・熊本で活動する修道会やサレジアンシスターズ、イエスのカリタス会、純心聖母会の司祭修道者、神学生・志願生がスタッフとして参加させていただきました。10年の間に多くの召命の種が蒔かれました。私自身、手取教会出身と紹介され気恥ずかしい思いもあったのですが、手取教会を訪れる度に出会う信者さんから「お帰りなさい」と温かく迎えられ、今日共同体の懐の広さを感じました。
 手取教会では現在月曜日に永久聖体礼拝が行われています。これは1995年(平成7)8月15日に熊本地区5教会合同で24時間永久聖体礼拝が信徒の協力により健軍教会で約10年間行なわれていたのを手取教会が引き継いだ形で継続されています。以前と比べて聖体礼拝の規模は縮小されましたが、リレー式で聖体の前で祈る信徒の姿からは聖体を中心として生きようとする信仰の熱意が伝わってきます。
 手取教会は1989年(平成元)に宣教100周年を祝い、2014年(平成26)には教会創立125周年を迎えました。コール神父によって蒔かれた最初の福音の種は、125年の歳月を重ねることによって、聖書の中の「たとえ」にあるように空の鳥が巣をつくる程の大木に成長しました。
 「父なる神様はご自分の計画を遂行するために、必要な時に、必要な所へ必要な人を派遣してくださいます。125年の間、ご計画の中で歴代の主任司祭や協働司祭が手取教会に派遣され、宣教司牧にご尽力くださいました。同時に派遣された司牧者に全面的な協力を惜しまなかった数多くの信徒のことも忘れてはならないでしょう。(中略)
 100年を超える時の流れの中で、社会事情も時代も大きく変化しました。
教会も大きく成長発展しました。しかし、その信徒数の人口比は1パーセントに満ちません。数多くの人々がまだ福音の喜びに出会うことも、主の食卓に与ることもできず、そのチャンスを待ち続けています。現代の教会にも初代のコール神父のような情熱と使命感に溢れた人の出現を待ち焦がれています。その急務に気づき、応えていく人が数多く出現することが、創立125周年の一番適切なお祝いであると思います。この期待に一人でも多くの人が応じることを祈念します。…」
 カトリック手取教会創立125周年に寄せていただいた前述の宮原司教様の言葉を心に刻みながら、さらなる先の教会創立150周年に向かって歩み出した手取教会です。
 激動する社会情勢の中で、いつも変わらない「道」「真理」「いのち」である主イエス・キリストの照らしと導きと支えのもと、「神の国」の到来のために役割と使命を果たす事ができますように。祈りながら、純粋の手取っ子とは言えずおこがましくも熊本・手取教会の紹介をさせていただきました。
(参考資料)
・福岡教区HP
・カトリック手取教会125周年記念誌  
 
埼玉(草加)
埼玉(草加) シスターY

草加の位置とすがた
 足立区と隣接する草加市は都心まで40分、浅草から栃木までつなぐ東武伊勢崎線の沿線にある。教会は駅東口から徒歩8分。駅名の「松原団地」(1962年入居開始)はかつて「東洋一のマンモス団地」と呼ばれたほど規模が大きく、駅の西側にA~D地区まで広がっている。市の中ほどを通る旧日光街道の両側にそびえる松並木「草加松原」は、2014年国の名勝地に指定された。「草加せんべい」はかつての宿場まちの名残である。

団地で生まれた教会
 1962年、松原団地在住の一信徒の自宅を川口教会の分教会として集会が行われるようになった。やがて団地在住者を中心に信徒数が増え、分教会の本拠は1965年に団地内に開設された藤幼稚園(殉教者聖ゲオルギオのフランシスコ修道会経営)に移される。1979年、拠点教会などの支援や借入金によって教会が完成し、1981年に小教区として独立。ほどなくして主日のミサに信徒が聖堂に入りきれなくなり、隣接地を購入して後に現在の教会に建て替えられた。

司牧の状況等
 私の家族は1970年5月に草加に転居し、小学2年から高校卒業までの11年間を過ごした。当時、埼玉県南の司牧は教区司祭のほか、フランシスコ会とパリ外国宣教会が担っていて、小学6年まではいろいろな神父様が司牧に来ていた。教区の篠原師、石川師、宮田師、猪俣師、鈴木師、パリ外国宣教会のワレ師など。黙想会には御受難会のウオード師が来ていた。中学に上がるころ、石川師が群馬で難民のための仕事を始めるとのことで送別会があったが、大人の反応は冷ややかで、悲しかった思い出がある。司教様の許可を得てのことだと聞いたが、信徒の理解を得るには難しかったのだろう(石川師の仕事は後年、「あかつきの村」として発展した)。中学1年からは、川口教会の主任になった教区の野上貢師(故Sr大泉クララの甥、故Sr篠田のいとこ)が6年間司牧された。同世代の仲間はそれなりにいたが、堅信を終えると次第に見かけなくなった。高校生になったころ、神父様は教会建設に本腰を入れるため、私の家から5、6分のところに小さな家を借りられた。夏休みに要理の勉強に神父様のところに通い、生活を垣間見てその貧しさに驚いたが、純粋に神と教会のために生きる人とはこういうものかと思った。建設費調達のため親戚回りもされ、物静かだがこうと決めたら必ずやりとげられる神父様との思い出は私の宝である。念願の教会は高校2年の秋に完成した。

親から受け継いだもの
 父は御徒町の生まれで14歳までに相次いで両親と死別した。その後、生家の呉服屋をたたんで姉弟を親戚に預け、就職するたびに空襲で焼け出されること3回。母は阿佐ヶ谷の出身で2人とも結核を患い、清瀬の療養所(ベトレヘム病院)で片肺を切除するという同じ道をたどった。父は療養所で、母は高円寺教会で受洗。療養所はパリ外国宣教会の司牧で、メイラン師やミルサン師のことを後々母が話してくれた。
両親は結核回復患者の会で知り合って結婚。母は年子で私と妹を出産した。思い起こすと、2人とも常に体力的に薄氷の上を歩いている感じだった。私と妹は幼児洗礼で、阿佐ヶ谷から浦和、足立区綾瀬、草加と転居した。父は愚痴を決してこぼさない人で会社勤めを誠実にこなし、いつも前向きだった。母は家庭をよく守り、教会に関することにとても熱心だった。前述の石川師の廃品回収に定期的に協力し、司祭の話を聞く集いを家で開き、近所の人を何人も信仰に導き、信徒からの相談にのり、病人訪問などをしていた。中学生のころ在世フランシスコ会に入っていたが、私の入会後は聖霊刷新の祈りの集いを家でやっていた。若いころ、修道生活を望んだことがあり、修道者が読むような霊的読書を手元に置いてボロボロになるまで愛読していた。母の病弱な体から出る求道心は、中世の巡礼者のそれと同じ感じがするように思う。

召命への導き
 高校3年に体験したいろいろなことが、直接召命へ導くきっかけとなった。夏休みの長崎でのカトリック青年大会と前後の旅行、その途上でのバングラデシュ難民の青年との出会い、主の呼びかけを聞いた召命黙想会など。召命への働きかけは誰からもなく、私の意思は当初、神父様さえ半信半疑だった。しかし、すべては両親とたくさんの神父様方、教会の中で育てていただいた結果である。この稿を書くことで様々の恵みを振り返ることができ、御父の手に確かに導かれて今日があることを心から嬉し
く思う。感謝!
(草加市HP、『北関東のカトリック』カトリック浦和教区史誌編集委員会)
 
上五島(折島)
上五島(折島) シスターK

 折島は、新上五島町の青方湾に浮かぶ島である。私の終生誓願宣立2年前の1976年に青方の町営住宅「折島団地」への集団移転を機に150年の歴史が閉じられた。移転は、1960年代から人口が急減し、数年後には分校は廃校となり過疎化が進行。慢性的な水不足、子どもの教育の将来のこと、急病人を運べる人がいなかったことなどで、移転の話が持ち上がった。私は移転前のこの島に生を受け、召命の恵みをいただいた折島について、思いを巡らし記そうと思った。
 折島は東西400m、南北に1km、面積0.71㎡の小島で、南北2つの山でできている。折島という名は、まん中が折れているような格好をしているところから名づけられたと言われる。折島に最初に住み着いたのは、大村領外海から五島福崎に移住し、さらに何回も転々と移り歩き、キリシタンに対する差別と迫害から逃れて、最終的に辿り着いた白濱弥造たち10戸であった。ここを信仰の安住の地とするために、弥造たちは険しい地形を開墾して畑を造成するなどして島を形成していった。当初、折島は浜ノ浦の地主の所有であったので、1880年に共同出資で800円で島を買い求めた。「800円島」とも呼ばれた由縁である。当時として安い価格でなく、網上げの川口氏から借りて10年がかりで皆で返済した。それからやっと自分たちの土地として、信仰一途の生活が始まった。
 今回、系図を調べると弥造の子どもが八十吉、ハマ、トメ、忠右衛門、マセの5人で、トメの子どもが今は亡きフランシスコ会の冷水神父、マセの子どもが私の父であることが分かった。島に教会ができるまでは弥造の弟福松の家が教会代わりに使われた。島で一番大きな家で、しかも島の中心部にあったからだった。故山口大司教様もこの家でミサを捧げられたとのこと。1924年に鯛之浦教会主任に赴任された時代のことかもしれない。最初の教会は昭和5年に献堂、司祭不在の巡回教会で、月に1・2回ミサが捧げられた。ほら貝の音がよく聞こえた。島全体に本土の大曽教会から司祭(当時原塚神父)が来られ、ミサが捧げられる。貝の音はその合図であった。ミサがない時は皆で教会に集まり、共同で祈る。日曜日だけ月の聖母月、10月のロザリオの月や四旬節の道行等。普段は各家庭祭壇を囲み、祈りが捧げられる。日曜日、凪の日であれば伝馬船に乗り込んで大曽教会に行く。30~40分かけて海上を渡る。大型船とすれ違う時は大変。大波を被ったり沈みそうになって、恐い瞬間を何度も経験した。黙想会の時も2日間は通う。大人も子どもも伝馬船2~3艘に分かれて。今考えると、あの海を小さい舟でよく渡ったものだと感心する。
 信者部落でも信仰を守っていない方もある。その方々の最後の一例をあげてみると、信者であったが、一度も教会に姿をみせなかった。その方の最期は、皆で葬儀は行なったが、お墓が祝別された墓地内ではなく、墓地の外に埋められた。そのことを目にした時、心が痛んだ。増々信仰を固めることを意識させられた。
 島の日常でライフラインの普及は遅れていた。まず水不足に苦労は絶えなかった。夏になると渇水が多く、他の部落から船で積んできて、一バケツ5円で買って生活した時もあった。電気など、考えられなかった。ジミ芯のランプの灯りをよく使った。風呂の水は雨水を確保する工夫を行ない、炊き出しには薪を割って使用。洗濯は海上で粗洗いをし、最期の仕上げに水を使用。
 召命に関しては、冷水神父が私の召命に大きく関わってくださった。また大阪教区の山田國吉師が病気療養のために1年ほど島に滞在され、その間、要理の指導やミサ等捧げてくださった。この要理の時に話された内容は種まきの例えなどで、その時はまだ聖書を知らなかった私。志願院に来てはじめて聖書を手にしたとき、この話だったのかと夢中で読んだ。
 島に残っているエピソードであるが、密作の弟伊勢藏は大変な力持ちだった。浜ノ浦から7人がかりで運んできた石仏を「拝め」と強制されたが、これを一人で担いで島の北端にある千畳敷の絶壁から放り落としたという。
 先祖の系図を初めて知り、改めて信仰の恵みをいただいていることに心が震えた。先祖が命がけで守り続けた信仰に恥じない生活を固めていくことに心をとめ、島の人たちに心を寄せながら邁進していきたい。
   
ブラジル(ピニアウ教会)
ブラジル(ピニアウ教会) シスターA

 私は、1976年3月5日に生まれ、サンジェロニモのピニアウ教会で、4月4日に洗礼を受けました。私をはじめ、年上の兄、姉と一緒に、初めて召命の集いに参加したのは、オルチゲイラという町で、1989年の9月。2つの男子修道会と4つの女子修道会の企画で、2日間の集いでした。この集いを通して、宣教者の生き方に興味を持ち、ほとんど1年間、召命の集い、通信を通して、関わっていました。
 1991年3月、両親と8人の兄弟みんなで、クリチバに移転することになり、オルチゲイラのシスター方とのかかわりは途絶えてしまいました。その修道会がクリチバにあることは知っていましたが。
 純心のシスター方を知ったのは、私が、17歳を迎えようとしていたころでした。1992年10月31日、11月1日にかけての召命の集いが、黙想の家でありました。この召命の集い以来、「わたしが?」との思いが、心に残っていました。その後、土曜日の午後、ノビシアでの待降節のノベナなどに参加しながら、シスター方の生活を知り、お互いを知る時を得ました。1993年1月31日、志願者として入会しました。
 このようにして、私の歩みが始まり、40歳を迎え、終生誓願5年が経ちました。
 今の、わたしの使徒的宣教は、老人方の介護を通してです。人生も修道生活も順風ばかりではありません。最後に、皆様にお願いしたいことは、この便りを読んでいただき、私の歩みに、堅忍と聖なる者となる生き方を祈ってくださるようお願いいたします。
   
ブラジル(アモレイラ教会)
ブラジル(アモレイラ教会) シスターM

 私は、サン・セバスチアン・ダ・アモレイラという町で生まれましたが、市外に住んでいました。サン・セバスチアン教会で、大沼ジェロニモ神父様から洗礼を受けました。その後、勉学の都合で、住んでいた市外から移転し、町に住むことになりました。
 12才のころ、修道召命を感じ、母に話しましたら「もっとよく考えなさい」と言われ、時が過ぎていきました。時が過ぎていく中で、また母に話しました。母はそのことを、神父様に相談しました。それでコルネリオという町にあるドミニコ会を紹介されました。母は、ドミニコ会のシスターに話しに行き、今の年令では、若すぎて、入会はできないと言われたとのことでした。
 こうして時が過ぎ、19才となり、高校最終年でした。この年、母の仕事が保育所に代わり、純心聖母会のシスター方と働くことになりました。母も、シスター方と働きながら、私の召命のことを話しました。それで半日、保育所に行きながら、お互いを知る機会を持つことになりました。一緒に、祈ったりしながら、自分の召命を知る、大切な時を得ました。高校を卒業する時期になり、自分の修道召命ももっと強く感じて、シスターに入会希望を話しました。母はいつも力と励ましを与え、いつも祈っているからと励ましてくれています。 
   
佐世保(三浦町)
佐世保(三浦町)

 三浦町教会は、長崎の信徒発見から32年後の明治30年に、佐世保(谷郷町)に2階建ての木造家屋を借りた「天主公教会」が片岡桐栄師を初代主任司祭として歩み始めました。その後、大正10年に三浦町に土地を購入し、昭和5年から6年にかけて教会建設に入ります。同時期に司祭館、幼稚園の建設も行われ、建設中の教会の後方に幼稚園が写っている写真が献堂50周年誌に載っています。教会と幼稚園は多少の改築は行われていますが、現在に至るまで建設当初の姿を残しています。 
 教会が完成するまで幼稚園を仮聖堂として使用していた記録があり、幼稚園には純心聖母会の入会を希望していた2人(中田チヤ、大泉はる姉)がおられ、純心聖母会の創立(昭和9年)までの期間に、二人とも保母資格を取得されています。純心聖母会が創立されると二人は引き上げられ(入会のため?)愛苦会の方たちが幼児教育に当られていたと伺っています。教会建築のため、主任司祭脇田師(後の横浜教区長)は寄付集めに全国をまわっておられますが、「着任早々の早坂司教様の英断と熱切な御後援に感激し主任司祭が寄付を集めるための全国の信者の篤志家たちに連なるべく、行脚の旅に出かけ、激励と多大の喜捨とに恵まれ二か月後に佐世保に帰ってきた」と早坂司教様の支えを知ることができます。昭和6年12月に教会堂が完成し、12月8日の祝別式が行なわれた教会は第二次世界大戦の過酷な時を迎えます。「佐世保大空襲」で町がほとんど壊滅状態になりましたが、崖地の高い場所にもかかわらず教会は、破壊されることなく今に至っています。ただ、大戦中、教会の外壁は真っ黒に塗られていたそうです。
 さて、町の中心部に在る教会にとって「聖心幼稚園」の存在は大きいものです。初代園長は早坂司教様です。信徒の子どもたちは、ここで初聖体の準備と聖体の秘跡を受け卒園します。堅信の準備は、今はシスターが行っていますが、昔は、Sr谷口洋子の父上がなさっていました。場所は、幼稚園の一室です。教会と幼稚園はともに歩み、教会行事、幼稚園行事はみんなのものでしたし、宗教心を育み召命への道を目覚めさせる大きな存在が幼稚園です。この教会出身者のわたしたちは、小さい時から信徒にシスターに見守られていつの間にか召命の芽は育まれていたと感じています。信徒は広い範囲に拡散しており徒歩で通うことが難しい状況の中、昔と比べれば毎日のミサ参加者はずいぶんと少なくなっていますが、できる方法を使って参加し、特に召命のための祈りは日々欠かさず祈られています。時折、ミサに参加するとその祈りに励まされ、この教会の一員として育てていただいていることへの感謝と、後輩を送ってくださいとの祈りを心ひとつにささげます。召命を育ててもらった幼稚園が閉園することは、ここで育ったんだと伝える場所が一つ消えるのだから寂しさがあります。卒園してから洗礼の恵みに与る人は、少なくありません。これからも蒔いた種が多くの実を結びますよう、新たな歩みを始めている佐世保修道院に新しい福音宣教への希望を託し、応援をしたいと思います。
 三浦町教会には一時期、巡回教会がありました。天神教会です。1931、32年(昭和6、7)五島、平戸、黒島、長崎方面から佐世保の天神地区(天神・東浜周辺)に移住した信者の家族で始まった教会です。最初の移住者の一人がSr池田洋子の祖父、池田義房様です。最初のころは、交通機関も家庭の経済状況もよくなく、遠い道のりを三浦町教会まで徒歩で通う状況でした。
 1947年(昭和22)、要理のできる場所が欲しいと公会堂(天神祈りの家)が信者の手によって建築されます。司祭はミサのために信者の家に泊まりがけで通い、要理には伝道師の谷口さん(Sr谷口の父上)が通われるようになります。1974年(昭和49)に新しい公会堂が天神祈りの家としてできあがりますが、1986年(昭和61)カトリック天神教会として教会が建築献堂され、今に至っています。Sr池田は、今回歴史を学ぶことによって自分は先祖がすべてをかけて伝えてくれた信仰をいただいていること、生かされていることを本当に感謝すると同時に、わたしは今の時代にどのような宣教ができるかを問われているように思ったとのこと。
 三浦町教会も天神教会も高齢化と信徒減少は大きな課題ですが、受け継がれている信仰は決して消えることがないと希望をもって、これからもともに歩んでいきたいと思います。信仰の尊い遺産に感謝しながら。
 参考資料 三浦町教会『献堂50周年誌』『天神教会の歩み(聖ヨゼフ教会・祈りの家から小教区へ)』
   
和歌山(古屋)
和歌山(古屋) シスターE

 和歌山県は日本最大の半島である紀伊半島の西部に位置し、江戸時代は紀州徳川家の領地(紀州藩)であった。浦上四番崩れでは300人の浦上キリシタンが和歌山へ配流され、1873年(明治6年)禁教令が廃止されるまで過酷な弾圧をうけた。和歌山の地で96名が死亡し、言い知れぬ苦難を味わい信仰を証しした。
 大阪教区(和歌山県、大阪府、兵庫県)には敗戦後、13か14の教会しかなかったようだが、現在は77の小教区がある。和歌山県には11の小教区があり、主に聖コロンバン会の神父様方が司牧と宣教にあたっている。紀州の秘境といわれた龍神村で1948年、住民側の要請によって教会が設立され、それに続く集団洗礼は当時カトリック教会の話題となった。村自体の過疎化と同時に信徒数は減少しているが、私が子どもの頃、その龍神教会で毎年サマーキャンプが行われていた。和歌山の教会の子どもたちが龍神教会の敷地内にある「友の家」で合宿をして、青年たちがリーダーを行い、神学生も来てとてもにぎやかだった。私の父はスタッフとしていつも参加していた。皆でミサに参加し、教会の前を流れる川で泳ぎ、バーベキューやスイカ割り、キャンプファイヤーをした思い出がある。大自然の恵みの中で、同じ信仰を持つ仲間と出会い、楽しい時を積み重ねていくうちに、自分は教会の子どもだと深く実感していった。
 私の家族が所属していた古屋教会では1992~2003年まで聖コロンバン会のイートン神父様が主任司祭だった。神父様は1950年に来日され、帰国されるまでの最後の10年間を古屋教会で働かれた。私が小学5年生の時、神父様の姪のカトリーヌさんが、婚約者と2人で神父様に結婚式を挙げてもらうためアイルランドから来日した。信徒がみんな参加するミサの中で結婚式が行われ、披露宴は愛徳姉妹会の幼稚園のホールを借りて行った。カトリーヌさんにきれいな着物を着せてあげ、会場や料理、出し物などを信徒が一つになって心を込めて準備し、カトリーヌさんは本当に喜ばれた。挨拶の中でカトリーヌさんは「今まで、どうしておじさんは私たち家族を置いて日本に行ってしまうのか分からなかった。でも日本に来て、ここにおじさんを必要としている人がいるとわかった。」と話した。私が神父様の方を見ると「大成功」といってぽろぽろ涙を流していた。その時の神父様の姿を想い出すと、私は今でも涙が出る。私の祖父が入院した時、同じ病院に入院していた神父様は、寝間着のまま点滴を引っ張りながらお祈りに来てくださった。イートン神父様が古屋教会にいらっしゃった時、いつも教会が明るく活気があったように思う。
 昔は子どもが多いことで有名だった古屋教会は、現在、子どもの姿はなく信者は高齢化している。司祭の数も減少し、巡回教会となった。私が純心聖母会への入会を父に話した時、父は「召命は自分だけのものじゃないからな。」といった。そして自分も司祭になりたいと思っていた時があったこと、古屋教会からはまだ、司祭、修道者が出ていないことを話した。古屋教会は長崎出身の信者が多い教会で、巡回教会になり召命の必要性を痛感していることもあり、ミサの前に召命のためのロザリオを続けている。私が古屋教会で育った召命第一号である。「召命は自分だけのものではない」このことを一生忘れずに生きたいと思う。

参考文献
三俣俊二著『和歌山・名古屋に流された浦上キリシタン』聖母の騎士社、2004年
『「旅」のー浦上四番崩れー』カトリック浦上教会、2005年
『龍神教会50年の歩み』
   
東京(八王子)
東京(八王子)

 八王子教会は、東京では築地、神田、浅草教会に次いで古い伝統ある教会として知られている。今年11月で設立139年になる。1873年(明治6)「キリシタン禁制の高礼」が撤去されその4年後にパリ外国宣教会のテストヴィド神父によって八王子教会の歩みは始まった。彼は東京方面だけでなく神奈川、静岡、愛知、浜松方面まで広範囲にわたって宣教活動を行っていたが、あまりの激務ゆえ、病に倒れ(胃癌)1891年に帰天(享年43歳)この頃にはすでに信者数300人を超えていたと言われている。その後も同会司祭が巡回司祭として宣教活動は続けられていたが1893年にメイラン神父が主任司祭に任命され、この時から「八王子小教区」が発足、メイラン神父もテストヴィド神父に劣らず献身的で惜しみない心で宣教熱意をもって、たくさんの人々を神へと導いていった。この頃、当時の若者たちがメイラン神父の宣教師としての熱意にひかれ感銘を受け司祭、修道者となりはじめ、後の世代にも多くの召命の道を歩む人たちが生まれていった。メイラン神父は44年の宣教活動を終え1936年引退。以降、邦人司祭が主任に任命されるようになった。1944年西田佐市神父が主任代理として着任したが、同年6月召集。しかし12月には召集解除となり帰還。1945年8月八王子空襲で教会全焼、8月15日終戦。西田神父は焼け残った塚本芳雄宅(父)で被昇天のミサを行った。以来教会ができるまで塚本十一朗宅と交互に主日のミサを行った。この段階で西田神父は八王子教会主任神父に任命される。
 西田神父の時代になってから立川教会(54年)町田教会(58年)五日市教会、豊田教会、青梅教会(67年)と次々に八王子小教区より独立し主任司祭もそれぞれの教会に任命され、八王子教会とともに昔の宣教者たちの熱意と模範に倣って宣教し今日まで活発に動いている。この八王子教会の熱い、力強い歴史の流れの中に塚本家の信仰の歩みがテストヴィド神父のときから始まっていたことを改めて知るチャンスを今回この「土地の召命」をまとめることによって得たことを感謝し、どのようなルートによって祖父塚本五朗から父芳雄に受け継がれ、子孫に伝えられていったかを少し書きたい。
 私の祖父塚本五郎は若い時に八王子の家を出て、横浜で日本に来たばかりのサン.モール会の小使いとして働いていた。この時、神様のお計らいとしか言えないほどの不思議なパリ宣教会ミドン神父との出会いがあり、彼はイグナチオの霊名をいただいて洗礼を受けている。結婚して妻ダイも洗礼を受け、二人は八王子に帰ってテストヴィド神父に協力するようになった。神父が八王子を訪れる時は自宅を宿として提供したりしていた。その五郎の長男が芳雄(父)で母滝子も富士吉田でミッションスクール在学中ドライ神父より洗礼を受けていた(祖父、父母とも宣教会司祭の熱心な教えを受けていたことがはっきりする)。この芳雄夫婦の間に男子2人、女子7人生まれ、11人の大家族であった。この家庭は主任司祭西田神父とともに歩んでいた。八王子教会で芳雄の家族といえば最初の熱心な信者の家族と認められたくらい。両親は子ども全員に幼児洗礼を授け、生活の中に信仰の芽を芽生えさせ豊かな情操教育も育ませていたように思う。家庭内では家族そろって祈り、毎土曜日には子ども全員が公教要理を受けるため八王子教会までバスで通った。母は時々厳しく待降節、四旬節にはお捧げをすることを勧め、おやつを少なめ、欲しいものはクリスマスまたは復活祭を迎えてから、歌ったりはしゃいだりすることも控えめにするなど。私たちはそれを当然かのように家族そろって励まし合いながら実行した。小学校では私の家族と親戚の塚本家だけがカトリック信者で時々「アメーン、ソーメン、ヒヤソーメン」と冷やかされた。別のことでも小さいながらに苦しんだ体験がある。それは私の堅信式が運動会と重なってしまい、前日に先生に「明日は教会に行かなければならない」と話すと「どちらが大切か?」と言われた。叱られそうでドキドキしながら、私は「教会」と言ってしまった。先生はじろっと私を見て、「それなら教会に行け」と言ってくれた。これは親からの信仰教育のおかげとまた立派な信仰宣言であったと大きくなってから我ながら感心した。
 あるとき西田神父は私と姉妹たちを車に乗せ遠くへ連れていった。何があるのかを知らないまま到着したのは藤沢の聖心布教姉妹会だった。後で誓願式であったと分かったのだがおそらくこの受式者のなかの誰かが八王子教会出身の方ではなかったかと思う。式はとても荘厳で聖歌も美しく天国の喜びのようだったと記憶している。受式者のシスターたちがベールの上にばらの冠をかぶって並んでいた姿が印象的で、ミサ中に私もシスターになりたいと心の中に感激と同時に何か決断させられたような神性なものを感じた。
 中学生になり自分の召命のため祈っていたころ、西田神父より「八王子にミッションスクールができるよ。そこに行かないか」と勧められ東京純心高校1回生として入学できた。入学して間もなく生徒の中に長崎から志願者が来ているのを知り、私もその人たちといっしょにシスターになる道を歩みたいと思うようになり、その年の11月に志願者として会に受け入れていただいた。八王子教会を辿りながら、私の家族の信仰の歴史を見つめることができ、本当に八王子教会が始まった時から一本の強い信仰の糸によってすべてがつながっていたように思える。外国から命がけで来られた宣教者の蒔いた種が芽を出し、枝をだし実を結んでいっている。 
 今の八王子教会は外国人も多数入り、国際的になり、信徒とひとつになって歩み続けている。これからも八王子教会から司祭、修道者が生まれますよう祈り続けたい。
 

パラグアイ

パラグアイ
 
パラグアイ  シスターT

 熱帯地方のパラグアイ、90%がカトリック信者の国で、私が生まれたのはラ・コルメナという現在人口5200人の小さな町で、その内の7%が日系人です。私たちの家族は、聖フランシスコ・ザビエル教会に所属していましたが、日本人は私の家族といとこ家族だけでした。私が初聖体を受けたころの教会は、壁は出来ていましたが、屋根は半分だけ、堂内のあちら側半分は草が生えているという状態でした。そんな教会の状態でしたが、今思うと、誰もが気にせずにご聖体をいただく喜びの方が大きく、初聖体式をこの教会で祝いました。
 当時は巡回教会だったので、司祭はクリスマス、復活そして12月3日の聖フランシスコ・ザビエルの祝日に来られてミサを挙げられ、初聖体式はザビエルの祝日に行われていました。現在も初聖体式は、聖ザビエルの祝日に行われています。
 神父様がいらっしゃることと祝日を迎えること、特にクリスマスを子どもながら楽しみにしていました。田舎で電話もなかった時代に、不思議に母は神父様がいらっしゃることを知り、静かにささやかな物を準備して神父様に届けていました。
 5月の聖母月と10月のロザリオの月には、夕食後、各地域でマリア様のみ輿を4人で担ぎ、各家庭に2日間ずつ留まるようにして回っていました。ロザリオ一連を歌いながら移動しておりました。わが家は一番離れていたのでいつも最後の日でした。
 夏休みだったと思います。小学校の先生を引退し、教会のお世話をしていらした方が時々シスター方を案内して家にこられていました。特別な事は記憶に残っていませんが、私の召し出しはきっとその時に呼びかけがあったのではないかと思っています。
 

ブラジル

ブラジル
 
ブラジル  シスターC

 私はサポペーマのランバリという町に生まれました。ランバリはサンジェロニモから車で30分の所です。町にはサンタクルスと言うカペラがあり、70年以上木造でしたが今はコンクリートに再建され塔もできました。カペラはサポペーマの巡回教会で、私が幼い時、神父様はポーランド人の宣教師でした。私はその神父様から洗礼、初聖体、堅信を授けていただきました。父の家族はみんなプロテスタントで叔父は亡くなるまで牧師でした。母の家族は全員カトリックで、祖父母は聖体奉仕者でした。祖父は正義感が強く信仰があり、よく祈る人で私の信仰教育と召命に影響を与えてくれました。思い出すのは、幼い私を自分の膝において、モーゼ、アブラハムなどの絵がついている聖書を見せながら物語を話してくれたことです。私は祖父の話が大好きでした。両親は小さい私に祈りを教え、家庭でロザリオを唱えてきました。その頃、私たちの町にフランシスコ会の宣教師がやってきて、カペラの近くに宿を取りました。私の家族は食糧を持って行って彼らを助けました。ある日、母と果物を持っていったら代わりに御絵をもらいました。御絵をもっともらうために毎日みかんを持っていき、たくさん御絵が集まりました。私が中学生のころ、佐々木神父様がサポペーマ教会の主任になり、イルマン田中とイルマン髙平も一緒に来られ、月1回、ミサが行われるようになりました。ミサ後、私の祖母の家で昼食やお茶、休息を取っておられました。
 14歳になったころには、シスターになりたいとの願望がありました。ビンセンシオ会のシスターたちを知っていましたが、私の家に一度もいらっしゃったことはありませんでした。母はその理由で、そちらの修道会には薦めなかったのです。そして純心聖母会に入ると決めた時、母はすぐに賛成してくれました。
 ブラジルは少ない司祭でたくさんの巡回教会を持っています。とても遠いところもあります。ランバリでは、ミサがない主日は信徒が集まり、ことばの祭儀が行われ、聖体奉仕者から聖体をいただくのです。
私はこれまでたくさんの方々から助けられてきました。キリストに従っていくために今も祈りでもって助けられています。信仰ある家庭に育ったことを幸せに思い、神に感謝しています。
 

広島(三原)

広島(三原)
 

広島(三原)

 広島教区は、管轄5県の中に6か所の巡回教会を含めて48か所の教会が所在している。
その中の広島県三原市にある「カトリック三原教会」について記したいと思う。献堂当初のこと等、当時の信徒が書かれた文献を参考にさせていただいたが、自身の出身教会でありながら、知らないことがたくさんあったことに驚き、多くの恵みのうちに現在の教会があることに感謝した。
 

三原教会の歩み
 昭和24年の暮れ、一人の信徒の家の一室に祭壇が設けられ、初めてのミサがあげられた。翌年2月、この信徒の貸家の2階に祭壇を移し、門柱に「三原カトリック教会」の表札が掲げられた。その時、信徒は大人7名、子ども7名であった。福山教会の神父様が、片道30キロの道のりをオートバイで通っておられたようだ。その後、信徒の教会建設への希望は保育所開設という形で現れることになった。この保育所は戦後の混乱期の、特に専業漁師の子女教育のために役立った。この保育所の一室に移された祭壇は、昭和26年11月の王たるキリストの祝日に献堂を見るに至った三原教会の土台となった。
 三原は昔から酒所であり、献堂された教会は酒倉を借用した建物だったところから、「酒倉教会」と呼ばれるようになった。初代主任司祭ド・ラ・ペリエール神父様(イエズス会)をいただき、改造工事などを経て、フランスの新聞社による募金で寄贈された鐘、「パスカル」が掲げられ、「酒倉教会」は三原のなじみの風景になった。その間、昭和30年から約3年間は純心聖母会も三原に修道院を開設し、保育所と教会のために多くの奉仕をされたと聞いている。
 その後、「自分たちの聖堂」建設の意欲は二代目主任司祭のヤコブ・コップ神父様の時に実現した。昭和39年12月、ドイツのケルン大司教区の協力を受けて現在地に新聖堂が献堂された。やがて、司牧はイエズス会から教区司祭の手に委ねられるようになり、教会共同体は地道な発展を遂げてきた。
 

「聖トマス小崎の碑」建設に向けて
 豊臣秀吉の命で長崎に護送された26聖人が三原を通ったのは1597年の冬。彼らは小早川氏の居城である三原城内の牢で一夜を明かした。少年トマス小崎が、故郷、伊勢の母に手紙をしたためたことで知られている。現在、三原城後の石垣の前に26聖人の一人、「トマス小崎」の碑が建っている。 
 この碑の建設に関しての事の発端は、1988年に「長崎の道」巡礼団が三原教会に立ち寄り、宿泊したことによる。「長崎の道」巡礼団の代表・本田周司氏の26聖人への崇敬の念は、三原教会の信徒の心を動かした。トマス小崎の書いた手紙の最後に「安芸の国、三原にて」という一文が残されている。もし、トマス小崎が三原で手紙を書かなかったら、26聖人がここを通ったことも、山陽道を通った足跡さえも残らなかったであろう。その思いを胸に、有志の信徒たちにより「聖トマス小崎殉教記念建設委員会」がつくられ、多方面からの協力のもと、1993年1月に、トマス小崎の碑が建てられた。私も、子ども時代に教会に行く日は、ミサに行く前にこの碑の前に必ず行き、家族で祈りをしていたことを思い出した。碑が建てられた由来を知り、感慨深いものがある。

 どの教会でもそうであるが、司祭と協働する信徒の熱い思いは教会を育てることに繋がるということを、今回改めて感じた。広島という地には、きっとまだ知らない信仰の歴史がたくさん刻まれていると思う。一つひとつに込められた歴史を知り、これからの教会発展のために自分に何ができるのか、神様との関係、人と人との関わりを大事にしつつ、まずは祈りと奉仕を精一杯できるように努めることから始めたい。

 

大阪

大阪
 
大阪教区は、この度列福が決まった高山右近(高槻城主)や細川ガラシア夫人などのゆかりの地で、キリスト教とは縁の深い地です。
 私が教会に行きはじめた1966~67年頃は教会の活動も活発でした。レジオマリエの活動も盛んで、北浜教会のレジオマリエも人数が増え、2つのセナートスに分けられて活動するような時代でした。私が純心に入会するころ、当時の主任司祭安田師(後の大司教)が「結婚をして信仰厚い家庭を築いてくれる人もいなくては困ります…」と嬉しい悲鳴をあげておられたことを思い出します。今は廃止になった北浜カトリック教会は北浜3丁目ビル街の三井信託銀行の6・7階にあり、特殊と言えば特殊な存在でした。家庭ごと所属する信徒は少なく、洗礼を受けても家族の反対で教会に来られない人、結婚により教会から遠ざかる人など幽霊信徒の多い教会でもありました。司祭はレジオのメンバーを連れて、教会に来ない人を訪ね、探しに行っておられました。「カトリック教会」と聞いただけでピシャッと戸を閉め、門前払いにあうことも度々という厳しい状況もありました。
 北浜教会時代は私の青春と重なり、思い出の多い一時期でした。その北浜教会が廃止された経緯については、田中康夫氏(作家・元名古屋知事)のプログに次のように簡潔に書かれています。「阪神大震災の後、カトリック大阪教区が、大胆な改編をして、中山手、下山手、灘の3教会を統一、大阪の北浜教会は廃止、甲陽園西山町の大司教館8600mは売却されました。」
 一方、司教座聖堂の大阪玉造カトリック教会の紹介では、「阪神震災後 西宮から大司教館がここに移り名実ともに司教座聖堂となりました」とあります。悲喜こもごもそれでよいのでしょう、主はすべてを良きに変えてくださるからです。
 カトリック大阪大司教区(大阪教区)は、大阪府、兵庫県、和歌山県におけるカトリック教会の活動を管轄範囲とし、77の小教区が置かれています。それ以外に教区責任者によって認可された、さまざまな修道会(修道院)やカトリック施設・事業体などがあり、それぞれが独自の役割を担って活動しています。
 1995年の阪神淡路大震災の時の体験を組み入れて(教区新生計画)を発表し、被災からの単なる復旧ではなく、社会のすみずみに福音を行き渡らせることのできる、21世紀に向けた刷新された教会づくりをめざしました。その後2002年から、教区全体に「ブロック化」がとり入れられ、また社会活動に取り組む教区の諸活動が「社会活動センター・シナピス」に結集することになり、小教区の壁をこえて社会と共に歩む教会づくりに取り組む仕組みが整えられました。以上がインターネットで観る教区の沿革です。
 私個人は信徒として所属していたのは僅か1年余り、その後帰省したとしても教会の友人は僅かで修道会入りしたり、結婚して他県に移動していたりでそれ程深い関わりなしに過ごしてしまいました。信者の姉の話では、司祭の数が少なく、かつては自分の教会と意識していた教会もブロック化で主任司祭が常住するわけでもなく、教会に活気がなくなり寂しい思いをしていると聞いています。今回、長崎から前田神父が大阪大司教となって着座されましたが、何とか若者の心をつかめる教会、かつての活気を取り戻してほしいと願うばかりです。神様はいつどこでも人々の心に働きかけておられることを確信し、希望をもっています。
 

佐賀

佐賀
 
佐賀(唐津)

 「なぜ近所にキリスト教の家が一軒もないのだろうか?いや、近くに親戚が一人もいないのも不思議だ」という素朴な疑問を持ったのは小学校の高学年の頃だった。中学から志願院でお世話になり、自己紹介をすれば、「出身は五島でしょう」という声が返って来た。高校時代、運動場の草取りが始まると、どこからともなく「宇田は居るか?佐賀人の通った後には草も生えんそうだ」という声が聞こえた。そして修練院時代、26聖人の殉教劇をする時は決まって、あの寺沢半三郎の役だった。 
 「土地の召命」の原稿を依頼されて、おおよそ召命の温床とはなりそうにもないことばかりが脳裏をかすめた。
 唐津の教会は、1902(明治35)年に城内二の門に創立され、現在の山下町に移転するまでには、西の門小路や裏坊主町を転々としている。2002年5月に100周年を祝った。信徒数約400名(170世帯)の教会である。
 創立のころから、佐賀や馬渡島、呼子教会の巡回教会であり、1927(昭和2)年福岡教区が設立されたのを機に、パリミッションやミラノ宣教会の神父様方によって司牧された。母は長年「日本人の神父様の説教が聞きたかね」と言っていたが、2015年4月から福岡教区の中村信哉神父が着任し、満足していることだろう。
 1936(昭和11)年から約10年、母方の祖父母は、子ども7人を連れて五島から佐賀に出て樟脳の製造をしている(母は長女で当時12歳、大窄操は8番目で、佐賀で生まれた)。
 1947年父と結婚した母は、そのまま佐賀に残って樟脳製造の仕事を引き継ぎ、理容師の資格を持っていた父の開業のために準備をしたようである。
 生まれも育ちも佐賀である私の中に、五島の風が強く吹いているのは事実である。大窄操の「土地の召命」の記事を読んで、私と同じような体験をしていることを初めて知った。その体験とは、幼い頃の五島(楠原)での生活である。
 私は4歳の時、楠原の祖父母に預けられ、ひかり保育園(現お告げのマリア修道会)に通った。親としては、近くに保育園がなかったので初聖体の準備も兼ねていたようであるが、肝心なことは何も覚えていない。ただみんなの後をついて朝晩教会へ行って祈ったこと、叔父や叔母たちから何か言われては、「佐賀に帰る」と言って、荷物をトランクに詰める自分の姿だけが記憶にある。しかし私にとって五島は、とても懐かしく親しみを感じる、叔父や叔母たちを兄や姉として慕い、可愛が ってもらった、他の兄弟が味わえなかった大きな恵みの場所であり、私の召命の力強い支えである。しかし小学生 の頃、夏休み特に8月15日を前に、兄弟そろって多くの子どもたちと教会に宿泊して教理を学び、イタリア人の神父様たちから、初聖体の準備をしてもらった体験も貴重な思い出である。今教会の墓地には、ミラノ宣教会の二人の司祭(彼らは同級生で一緒に来日した)が眠っている。まさに戦後の日本における再宣教の恩恵を受けて、多くの宣教師たちに育てていただいた教会でもある。
 つい先日帰省した時、末の弟夫婦が来て話が弾んだ。弟が「俺はおふくろを悲しませんごと、教会に行きよっとばい!」と言うのを聞いて、昔とあまり変わっていないと感じながらも納得した。「長女で手伝いがいっぱいで、童貞さまになりたかと言えんじゃった」という母の思いを知る私も、時々「母を悲しませてはならない」と奮起する時がある。
 親(先祖たち)は、一番良いものを子に与える。その良いものを、親を悲しませないために大事に守るのも子どもの道であり、唐津教会の一信徒の本音でもある・・・。
 

ブラジルその1

ブラジルその1
 
ブラジル  シスターU
 私は7、8歳のころ、モジダスクルージス市の「カルメルの聖母教会」にカテケーゼに通っていました。ある日、母とその教会の前を通った時、日本語でミサがたてられていました。初めて聞く日本語のミサに母は驚いていました。教会に入っていくとアメリカ人のマクドナルド師でした。1963年、日本からコンベンツアル会の松尾師、山頭師、山内師が派遣されて来ました。 
 1968年、山頭師によってモジの宣教活動が開始され、当時日系人の教会がなかったので、ベネディクト教会の後方の小さな部屋を借りて、日本語とポルトガル語でのミサが捧げられていました。
 1988年、司祭館の横に聖マキシミリアノコルベ体育館(会館)が落成し、日系人のミサや堅信式が行われるようになりました。2003年には、人々の長年の夢であった聖マキシミリアノコルベ教会が建てられました。信徒は、すき焼き、バザー、ビンゴ、焼きそばなどで建設のために協力しました。モジの町には多くの日本人がいます。また、たくさんの信徒もいます。
 私がモジダスクルージス市を出て35年になりました。家族は3、4回、家を引っ越しました。その度にあちらこちらの場所でカテケージスを受けました。コンベンツアル会の神父様たちがたびたび家にきて、一緒に食事をしたり、遊んだりしました。日本人のシスターたちも時々来てくれました。子どものころの楽しい思い出です。
 私も神父様方のように、教皇様が言っている「出かけて行って家庭を訪問する」ことを意識していきたいと思います。
 

ブラジルその2

ブラジルその2
 
ブラジル  シスターR

 私はカトリックの家庭に生まれました。サンジェロニモの町から35キロ離れた田舎でパッソリーゾという小さな町、「恵みの聖母」教会で、生後29日目に洗礼を受けました。その町には5歳までいました。1か月に1度両親とミサに参加していました。母に言わせると幼児期の私は悪魔から自分を守ってもらうために、牧場の雑草で十字架を作り、ベッドの上に置いていたそうです。それからサンジェロニモの町の近くに引っ越しました。いつも夕方6時にはお告げの鐘がなり、子どもたちが祈りをしているのが聞こえ、私も一緒に祈りたいと思っていました。この時間が私は大好きでした。
 何年か経ってサンジェロニモの町に住むようになりました。ある人から教会の子ども聖歌隊に入らないかと誘われ、教会では献金を集める係りや、ミサの聖書朗読をしたりしました。その頃、姉が修道院に入りたいと言ったので、シスターたちが家に来るようになりました。姉はケンカもしなかったし、あまり外にも出なかったので修道者に向いていると思っていましたが、しばらくして姉は修道院へ行くのが重荷になってきていました。そのために訪問して来るシスターたちには会わなかったので私が接待し、姉の代わりに話をしなければならなかったのです。
 私が初めて純心聖母会の召命の集いに参加したときのこと、折り紙で花を折り、それを水のなかに入れる作業がありました。あるシスターが水の中でその花が開くと召命があり、開かないと召命はないと言われました。私は姉のために参加していたので内心ばれてしまうのではないか、そして花は開かないのではないかととても心配でしたが、折り紙の花はきれいに開いたので、私にも召命があるのだと嬉しくなりました。それから私は召命の集いがあるたびに積極的に参加するようになっていました。そして今、修道者としてここにいることは神のみ旨だった。具体的に聖書のひとつの言葉を生きてきたと思います。
 「私はあなたをほめたたえます、あなたはこれらのことを知恵のある人には隠し、小さい者に現して下さいました。」(マタイ11・25)
 

三ツ山

三ツ山
 
三ツ山(木場)

 三ツ山とキリスト教の関係は定かではないが、1620(元和6)年、仙台の伊達政宗の使節支倉六右衛門常長の一行がヨーロッパから帰国したが、仙台にも迫害が起こっていると知り、随員松尾大源(?見家はその子孫といわれる)、黒川市之丞、黒川六右衛門らはそのまま長崎に留まり、木場に住み、キリシタンの信仰を子孫に伝えたという説がある。また平戸藩の家老、原田善左衛門は信仰を守るため、木場に逃れてきて六枚板に住み着き、住民に教えを述べ伝え教化していたが、このことが大村藩に知れ、夫婦とも川平の難河浦(なんごうら)で火刑により殉教したと伝えられている。このことは記録に残されていないが、木場の信徒たちの間には、江戸・明治時代を経て、ずっとそこが「殉教地」だと伝えられており、毎年、旧暦3月17日に墓参りしていた。いずれにせよ、木場にキリシタンを受け入れる地盤があったことを物語っている。

 1947(昭和22)年、清水佐太郎師のころ、この墓から寝せ棺にはいった遺骨が発見され、?見家で保管されていたものを西坂に26聖人記念像等が建てられた1962年に同記念館に預けられた。後年、このことを聞かれたバリヨヌエボ師は、1977(昭和53)年、「木場教会殉教者顕彰の碑」を建立され、遺骨をそこに納められた。
 木場での迫害は、浦上崩れがある度に飛び火し、殉教者が出た。特に大きかったのが浦上四番崩れの後に起こった木場の三番崩れであった。?見多四郎ら125名が大村の唐人牢にいれられた。牢では拷問はなかったが、飢えと寒さのために弱い子どもや女性たちが先に命を落としている。
 3年間の入牢中、55名が亡くなった。このような状況下、このままでは身体ばかりか信仰も守り通せないと心配した多四郎ら5名が脱牢をはかった。2名は連れ戻されたが、逃げ延びた3名は浦上の一本木(本原)に潜んだが、浦上は総配流になり、田川友八は大浦天主堂に隠れた。
 その後、香港に逃げる小神学生たちに同行し、香港で石版印刷を勉強した。帰国後、ド・ロ師の印刷を手伝っていたが、後に浦上天主堂の賄になった。常太郎は、高島に渡り、後に黒崎へ移住した。多四郎は大阪へ行き、川口教会の受付をしていた。1872(明治5)年、信徒たちは許されて木場に帰った。大村の牢から生きて帰ったのは70名である。翌年、禁教が解かれ、多四郎も大阪から帰った。家も田畑も人手に渡り、山の木々も伐採されており、帰郷者たちは皆、生活苦にあえいだが、多四郎は信仰が薄れゆく信徒のために寝食を忘れ、伝道に励んだ。
 
 1888(明治16)年に浦上教会のポワリエ師が木場に出張して聖務を捧げてくださったのを機に、木場にも祈りの家を建てようとの機運が起こり、犬継・上床に木造の仮聖堂を建立。しかし台風に飛ばされ、2年後には元キリシタン逃亡を監視する場所だった横目屋敷を多四郎が買い取り、上床の聖堂を移築した。ペルー師の指導で祭壇を増設、天井を柳張りに取り換え、聖堂としての形を整え、クザン司教により祝別。イエズスの聖心の保護をいただいている。昭和の半ば、火災で一部類焼、老朽化もあり、現在の地に新築した。多くの教会と同じく、信徒は労力を提供して、まず敷地を完成し1962(昭和37)年、教会が完成した。

 三ツ山教会は純心との関わりも大きく、その始まりは戦前、故永井隆先生からの勧めで疎開地として三ツ山の地を買い求められたことである。原爆投下の日、松脂取りにきていたことは皆さんご存知の通り。その後、老人施設、原爆ホーム、短大移転、純心聖母会本部落成など、ますます関わりが深くなっていった。旧木場教会から三ツ山教会になったころ、子どもたちの要理を担当するためにシスター二人が毎週、バスで通うようになった。大石キミ子は、「バスは当時、犬継(教会の下)が終点であったが、江角会長様から一つ手前の六枚板で降りて歩きなさいと命じられていた。川に架かっていた橋が古くて、いつ壊れるか心配されたようでしたよ。」と思い出を話してくださった。?見大司教の要理教育を受け持ったのは岡?幸子で、おふたりとも当時を鮮明に記憶されている。以後、50年余りに20数名にお世話になっている。信徒たちも純心の施設のあちこちで、雇用人として、入居者としてお世話になっている。
 430年、生活の中に根付いてきた先人たちの血と祈りと犠牲に支えられ、三ツ山教会から4名の司祭と6名の修道者が出ている。召命のきっかけは、その当時の司祭やシスターの呼びかけだけでなく、その生き方に憧れた結果でもある。キリストのために殉教して逝かれた人々の実りが少しずつ確かになっていくことを祈りつつ、召命の道を歩む者を送ってくださるように願う。

参考文献
 片岡弥吉著『長崎の殉教者』
 『三ツ山教会献堂50周年記念誌』
 
 

栃木県 松が峰教会

栃木県 松が峰教会
 
―栃木県・松が峰教会―
「聖マリアの誕生」
 「歩く宣教師」ヒポリト・カジャック神父の司牧のもと、松が峰教会が誕生してから今年で117年になる。カジャック神父は、パリ外国宣教会から派遣され、北関東(栃木、茨城、群馬、埼玉)から八王子、横浜を祈りながら、家々(当時、カトリック信徒は誰もいない)を訪ね歩き、時には馬に乗って宣教した。仏教思想の強い人々との会話は外国人宣教師にとって多難であったはずだが、殉教者の精神と宣教への篤い思いと忍耐で乗り越え、信徒を誕生させ聖職者を輩出した。宇都宮出身の聖職者は元横浜教区長荒井勝三郎師をはじめ50余名を数える。
【宣教当初の神の摂理についてのエピソードがある。足利の田舎の細い畦道で織物商の故吉田氏と外国人司祭がお互いに道を譲りながらすれ違ったものの、数メートル離れて双方が振り向いて見つめ合う。その瞬間、神の働きがあった。互いに再び近づいて挨拶し、その夜はカジャック師が吉田家に宿を取ったことから福音宣教の種が蒔かれた。】
 松が峰教会は県庁所在地の中心地に、迫害、戦争、火災、その他の苦難を耐え、凛として聳え立つ大谷石造り=ロマネスク建築の雄姿が特色である。昭和33年の頃はJR宇都宮駅からも教会の二塔を見ることが出来たが、街の発展に伴い林立する高層ビルに隠れ、現在は東武線電車の窓外から異色を放つ教会全景が確認できるだけとなった。平成10年「登録有形文化財」に認定され、ライトアップされて夜景の絶景地になっている。
 松が峰教会は1932(昭和7)年11月、シャンボン東京大司教の司式のもとに荘厳な聖別式が行われた。その後、大戦で大半を焼失するが、終戦の昭和20年、長期抑留生活から解放されたシャレット・ミカエル(フランシスコ会)神父が教会主任として着任され教会の再建に着手された。
 開園まもない松が峰幼稚園の園児となった私たち姉妹にとって、ミカエル師の愛車(ジープ)に乗せていただいたことや、回廊式の司祭館で「どんぐり駒」を作り、神父様な手のひらで回して見せてくださった温かい触れ合いなど思い出がある。大戦前の教会にはフランスから取り寄せた美しい色ガラスがはまっていた。その破片が土に埋まっていたのを掘り出して宝のように大切にしていたこと、神父様手作りの遊具や人形の家、市内バスを内部改良したおもちゃの家で遊んだことなど幼稚園時代の思い出が蘇ってくる。
 卒園後、私たちは公立小学校に通い、教会から遠のいたが、Srベルナルダ洋子が海星女子学院(マリアの宣教者フランシスコ会経営、現在はさいたま教区立)中等部3回生として、SrMクララヒロ子は高等部4回生として、Srアスンタ福田眞澄は12回生として中等部に入学、それぞれが学院で受洗の恵みを頂いた。Sr福田が国立栃木高等看護学校時代に私たちと出会い、本会でともに召命の道を歩むことになった。
 松が峰教会主任であった野口義美師(長崎出身)とは、家族同様の親交を持ち、神父様のとりなしで田園調布の小さき花の幼稚園で初代会長様とお会いしたことが本会への入会の機会となった。私たち姉妹の両親、Sr福田とご祖父は野口師から、Sr福田の父上は戸村師から受洗。母(フユ)アンナが設立したレジオ・マリエの活動は今も継続されている。
 松が峰教会の今日は、主日・祝祭日のミサ前にアンジェラスの鐘が響き、フランス国籍主任司祭ザビエル御前(みさき)師の宣教の実りも豊かで多数の信徒が積極的に、生き生きとミサに参加している。平成24年、教会会館が新築され、小聖堂には Srクララヒロ子のデザインのステンドグラスが時移る日差しに美しく映えている。
 松が峰教会から分かれた峰教会「聖家族教会」がある。平成7年、故高橋明主任司祭の代に新聖堂と納骨堂がSrクララヒロ子のデザイン(ステンドグラスとモザイク制作他)・兄(功)の設計・施工によって落成。その折に功兄家族4人が受洗。ミサには家族連れで参加する姿があり、家庭的な教会である。
 2014年、海星女子学園創立50周年を迎え、同窓会が企画した記念行事としての講演会にSrベルナルダ洋子が講師として招かれた。純心聖母会の修道者としての証になれば幸いとの思いで役目を果たした。宇都宮から召命の恵みに応える者が出るように共に祈りながら過ごして行きたい。

参考文献
・『カトリック松が峰教会宣教100年の歩み』(1988年)
・「新たな千年紀へ向けて『聖家族カトリック峰教会25年』誌」
・教会パンフレット 松が峰教会会報
 

群馬の教会

群馬の教会
 

群馬の教会の霊的風土

 1882年(明治15)のクリスマス、パリ外国宣教会のヴィグルー神父とカディアック神父が来日し、翌年から群馬県を含む北関東の宣教が始まったと言われます。北関東という広大な地を、東京の築地教会から徒歩で巡回。「歩く宣教師」と親しまれ、その後豊かな実りをもたらすみことばの種まきが始まりました。1895年には北関東で4番目の新町教会が建てられ、明治期の群馬における宣教拠点となりました。
 明治憲法で信教の自由が合法化されるまで、教会が周囲からの無理解や迫害に苦しんだのは群馬県でも同じことでした。更に戦争中は外国人司祭が拘留されるなど、厳しい時代を経て、戦後、フランシスコ会が群馬県の宣教を委託されます。アメリカや中国で宣教していた多くの宣教師が来日。新たな宣教が始まりました。1953年には高崎と館林に小教区が設立され、料亭の2階や地元の名士に提供された家屋や民家の倉などを改造し、貧しくとも喜びに満ちた教会が次々と生まれました。
 その当時を彷彿とさせる、野中晴江が受洗へと導かれたエピソードを紹介します。
  終戦後の事。高校を卒業後、母校の用件を携えて訪れたとき、ローカル線の駅に多々並ぶパンフレットの中に、見慣れない「富岡カトリック教会」の文字を見つけました。イエズス様が両手を開いて立つ聖心の写真と「重荷を負う者我に来たれ!」との言葉。一枚持ち帰って度々眺めているうちに、「一度、訪れて見よう」と思い立ち、教会の門を叩きました。この日から、週一度、仕事の合間をぬって勉強会に出席。
 足繁く通う間に友達もでき、夏の軽井沢でのキャンプや桐生修道院での聖体行列など教会行事に参加し、月一度の集会とロザリオの祈りやレジオ・マリエの会にも出席。病人見舞いや貧しい家庭の訪問などをはじめると、限りなく教会活動の意義を体で感じるようになり、洗礼を決心しました。主任司祭に伝えると、「今週これを持って、あなたの町の子どもたちにどれか聖書の箇所を選んで話してください。これが受洗のテストです」と聖書を手渡されたのです。言われるままに、その週の土曜日に町に出て、子どもたちに声をかけると20名くらいの小学生が集ってくれました。そこで、信者の方のお座敷をお借りしてマリア様の歌を歌い、続いてイエズス様の洗礼の箇所を選んで話した記憶があります。
 何も分からないのによく話したことと思い出すたびに感心しますが、座敷を提供してくださった老夫婦も襖の陰で聞いておられたと聞き、ビックリしたことでした。主のみことばはどんな不束な言葉であっても、ご自分の宣教活動にお使いになるのだと感謝し、8月15日被昇天の祭日に無事に9人の仲間と一緒に受洗の恵みをいただきました。
 当時の富岡教会は信徒宅などに分教会を設置し、ミサ、公教要理、聖書の勉強会、英語教室などを行い、子どもたちを集めて227か所で教会学校を開催していたと言われています。この教会学校から誕生した信徒も多く、活動も活気に満ち、教会が生まれて翌年の堅信式には6名、2年後には124名が受堅したそうです。
 現在、群馬県も教区司祭による司牧地となりましたが、群馬の教会の霊的風土に深い影響を与えているのはフランシスコ会士の霊性です。ある教会の信徒の回顧録の中に、草創期に赴任した司祭について次のような文章があります。彼はアシジの聖フランシスコの生き方、清貧、貞潔、従順の精神を徹底的に実践している宣教師であった。一つの例に過ぎないが、神父に眠りにつける蒲団がないことを知った貧しい信徒が、やっとの思いで作った布団は、次の日もうそこにはなかった。彼にとって、全ての物質は主の道具でしかなかったのだ。又、戦争の傷が顕著になってきた時期であった。米兵と日本人女性の間に生まれた子どもの養子縁組に奔走した。そして一方では宣教に必死に取り組んだ。(中略)公教要理は、(中略)廊下まで人は溢れていた。それにしても、彼はいつ眠りについたのだろうか。聖務日課を果たして、眠る時間のないまま、朝の聖務日課を行ったのではないだろうか。貧しさや、悩みを持つ人のために、少しの時間を、と言われてそれが終日となることは珍しくなかった。貧しさを愛し、単純で明るく、誰にでも親しみやすく声をかけ、苦しむ人に惜しみなく奉仕するフランシスコ会士の姿は人々の中にキリストをもたらす、単純で最上の宣教方法でした。このような宣教師の姿は群馬県の信徒の原風景となっています。
 現在、県内にはハンセン氏病患者のための草津教会を含め13の教会があります。「あかつきの村」で始まったベトナム難民の受入れは、各教会にも引き継がれ、またある時はイランからの亡命者を受け入れる教会もありました。♪世界はみんな兄弟さ♪(『平和を祈ろう』より)の歌のように、小さき者とともに生きる聖フランシスコの霊性が、当たり前のように群馬の信徒の心に受け継がれ、現在、各教会には様々な国籍の信徒が大切なメンバーとしてともに集っています。
 私たちは今、教皇フランシスコの語る言葉を聞くたびに群馬の宣教師たちを思い出します。彼らの模範に育てられためぐみを感謝しながら。

 

五島 桐

五島 桐
 

五島 桐 「天主様第一」の生活

 一日の始まりはミサの寄せ鐘で起き、聖堂へ急ぐ。入り鐘で朝の祈り、続いてミサ。帰宅して朝食後、子どもたちは幼稚園や学校へ急ぐ。
 幼稚園での大事なことは初聖体。教会近くの部屋(今のお告げのマリア会)に母親たちも集まり、子どもを着替えさせて聖堂に並んで座ると、朝の祈りが始まった。先唱は幾人かの男の子たち、文字を知らないから暗記。長い祈り文を覚えさせるため、家族も長い間、毎日時間をかけて覚えさせたに違いない。私は初告解の練習を母にさせられたことを思いだす。小学校へ進むとけいこがある。けいこの前後に聖堂周辺で遊びに興じ、その面白さだけ記憶に残った。しかし6年生の夏の堅信の前に、新米の神父様が熱を込めてイエス様のお話をされ、イエス様の愛、苦しみが心に響き、足のおできの痛みをこらえて正座した覚えがある。

 青年会処女会は降誕祭の飾りつけ、運動会で仮装行列、学芸会で寸劇など会場を盛り上げた。桐の隣は異宗教の奈良尾町であまり交流はなかったのであるが、どうした風の吹き回しか、奈良尾町で聖エリザベットの聖劇をした。私も子役で駆り出された。
 桐は半農半漁の自給自足、一年分の主食、芋や麦、野菜を作り、多くの男たちは漁をしていた。現金収入はあまりなかったが、信徒は、神父様の「まかない」(食材の提供)には、自分たちは貧しくても良い食材をと、心を砕いていたようだった。結婚や葬儀の時は、外に「くど」を作り、大きな平鍋で炊き出しもしていた。そうした生活の中、折々に祈りが組み込まれ、子どもの信仰教育を重要なこととし、子どもたちはおとなの敬虔な祈りに誘い込まれ、天主様が第一という価値観が刻まれたと思う。

 私の父は29歳で養子となり、そのころから宣教師フューゼ神父様の下、宿老として教会や郷民の諸問題に従事していたようだった。私が物心ついた時も、昼間はほとんど家にいなかった。母は家族を養うため身を粉にして働いたから、貧しくても食べ物には事欠かなかった。また奈良尾町入口に通じる道脇に家があったので、戦後間もない頃、いろいろの方がわが家に立ち寄った。食べ物の無い人には持てるだけのものを持たせ、虚無僧には茶碗一杯の配給米を首に下げている袋に入れていた。行商の人は家に泊まらせた。貧しいから特別なことは何もしない、ただ家族同様だった。
 父は夜帰り、たいていは酒に酔っていたが、夕の祈りの先唱をしていた。天主様を敬い尊ぶ心が全身にあふれていた。祈りの結びに205人の日本の尊き殉教者が加わった。父は信仰の弾圧のなかで生き抜いた親たちを見ていたし、桐のためすべてを捨て、命をかけたフューゼ神父様の下にあったのだから、家族のことよりも教会と郷全体のことを優先したと思う。私は、父の仕事に無関心で、父が何をしているのか知らなかったが、父の埋葬時に、神父様が平和のために働いたと言われたので、ああそうだったのかと思った。
そして「右の頬を打たれれば左の頬も向けよ」とか、「一升も二升も涙を飲んだ」と父が言ったことがあったのを思い出した。こうした貧しく厳しい生活条件の中で第一に天主様を敬い愛し、「人をもわが身のごとく」を生きたおとなたちの生き様が子どもの頃、私の脳裏に刻まれ消えることがない。それはみ手の業。新しい宣教も主のみ手の業。一人ひとりの心の奥に現存され、全被造物の中に現存される主のみことばに耳を澄ますことから始め、信じて単純に聴き従うことと思う。

<<宗教法人純心聖母会>> 〒852-8142 長崎県長崎市三ツ山町415 TEL:095-848-2241 FAX:095-843-7570